夏の雨、冷めない熱

第三話


 先を歩く映之のTシャツに、どんどん雨の染みが広がっていく。しまいには肌の色が透けるほど雨を吸い込んで、映之も奏太と変わらないくらいずぶ濡れになった。
「映之ごめん」
「おれそーやってすぐ謝るヤツ嫌い」
 不機嫌なのは変わらないようだった。奏太は気まずくて何とか話題を変えようと話しかける。
「さっきの二人、兄弟なんだね」
「ああ、ムジさんはいい人なんだけどさあ、あの弟のタツがうぜーんだよ。キモイピアスつけまくりだしナルだし声高えしマジうぜえ」
 そう言えば、意外と映之はピアスや装飾品のたぐいは身に付けていない。そんなところも気が合わない原因なんだろうか。
「ムジさんっていい人そうだね、ちょっと見た目怖いけど」
「うん、ムジさんはガチだから」
 一体何がガチなんだろう。フィーリングで話をする映之の語彙の少なさにはだいぶ慣れたが、やはりそれでも時々突っ込みたくなる。が、今回は我慢することにする。

 テントに戻ると、映之は濡れた身体や髪をタオルでごしごしと拭きはじめた。天井に吊るしたランタンの光に青いテントのシートが照らされて、映之の明るい髪の色や引き締まった身体が青く透けているように見えた。
「さみーな。早く入り口閉めろ」
「う、うん」
 入り口のチャックを閉めると、ザーッと降りしきる雨音が、テントを叩く音に変わった。ボタボタと凄い音で叩きつけている。
 奏太はゴアテックスのジャケットを脱ぎ、映之に礼を言ってハンガーにかけた。テントの中が濡れた服やタオルを吊るしたハンガーでいっぱいになる。
 濡れた身体を拭いて寝巻き代わりのスウェットに着替えると、やっと一心地ついた。しかしそれでも歯がカチカチと鳴って身体の震えが止まらない。
「ほれ毛布」
 映之から毛布を渡され頭から被るが、全然暖かくはならなかった。手足を擦って暖めようとしても、芯まで冷えきった身体は熱を持つ術を忘れてしまったようで、ただ疲労が増すばかりだった。
「あー、こんなさみいならシェラフ持ってくんだったな。お前も毛布一枚じゃ足んねーだろ」
「だ、大丈夫だよ。寝ちゃえば平気」
 快晴だった一日目は夜遅くまではしゃげるほど楽しかったが、野外フェスが初めての奏太にペース配分など分かるはずもなく、土砂降りのこの二日目は疲労も相まって本当に散々だった。
 トイレに入るのも仮設シャワーに入るのも並ばなきゃいけないし、地面が泥でぬかるんで座れなかったためずっと立ちっぱなしだった。豚汁やシチューなどの暖かい人気メニューはあっという間にソールドアウトになり、ちょっと高めの豚骨ラーメンすら並んでやっと買えた始末だ。
 こうなると、慣れていない者には目当てのアーティストのライブをいくつも見て回る余裕なんて無くなってしまう。
「あーなんか、難民キャンプにでもいる気分」
 冷たい雨に濡れ足は泥にまみれ寒さに震えて暖かい食事も風呂も無い。何をするにも長い行列。そもそもテント生活自体初めての奏太には、あまりにハードルが高すぎた。
 身体にかけているのはたった一枚の毛布。夕べは暑苦しいくらいだったのに、今はこの薄っぺらさがあまりに頼りない。
 疲れているのに横になっても眠れる気がしなかった。寒さと、それを煽るように激しくテントを叩く雨の音。冷たい湿気が、薄っぺらい毛布にうずくまる奏太を押しつぶすように包み込んでいた。
「明日も雨なのかな……」
「たぶんね」
「そっか……」
 ガクリとうなだれる奏太。明日の最終日、またこんな雨なら乗り切れるわけがない。でも今は明日のライブのことより、とにかく身体を暖めるものが欲しかった。
 遠くから聞こえるライブの音と、それをかき消すようにテントを叩く雨の音。この様子では明日も雨だろう。今から気が滅入る。

 ふいに、何かがふわりと掛けられた。
 映之が自分の毛布を広げて、奏太を抱えてくるまったのだ。
「え、映之……」
「いいからお前の毛布も広げろ」
「う、うん」
 突然のことに面食らった奏太だったが、言われるがままに自分の毛布を広げた。毛布が二重になると、いくらか暖かくなる。というよりも、映之の身体がすぐ隣にピタリと寄り添ってて、その体温が物凄く暖かかった。
「おま、身体すっげーつめてーな」
 触れ合った手足の冷たさに、映之が驚きの声を上げる。そして、今度は頬を触られた。奏太はあまりの事態に思考が停止してしまい、返事をする余裕がない。それでも、触れた映之の掌の温もりをずっと感じていた。
「顔まで冷てー。お前真夏に凍え死ぬの?」
 言われて初めて気がついた。そっか、今夏なんだ。
「し、死なないよ……いくら何でも」
「明日またあんな格好で雨ン中ウロウロしてたら死んじゃうかもね」
 これまた酷いことをあっけらかんと言う。凍えた奏太をいたわりたいのか苛めたいのか、奔放な映之の言動にはいつも振り回される。
 そもそも何で自分をフェスに連れてきたのか。こんな風に振り回してイジって面白がるためだけに連れてきたのか、だとしたら浮かれてホイホイついてきた自分が情けない。
 人目を引く存在感と、理屈はともかく行動力のある映之に憧れている部分があるのは自分でも分かっている。他の誰でも無く自分を誘ってくれたのがたまらなく嬉しかった。しかし、だからといって何されてもいいというわけじゃない。
「ねえ、何でフェスにおれ誘ったの?」
「え?」
「だって他にも一緒に行く友達いっぱいいるだろ」
 映之の友人の多さが羨ましくないと言えば嘘になるが、あの坊主頭の人以外は正直会話が成立するかどうかも怪しい人たちばかりだった。逆に言うと、自分が映之の友人であるほうがおかしいような気がする。
「えーだって、奏太と一緒に行きたかったから」
「そ、そうなん?」
 思ってもみなかった答えが返ってきて、奏太は動揺する。てっきり、諸費用折半要員兼便利な荷物持ち程度のつもりで誘ったんだと思っていたからだ。映之の言葉をそのまま鵜呑みにしてはいけないと思いつつも、奏太は照れ臭さで毛布に顔を半分埋めた。
「うん。多分おれ、奏太のこと好きなんだと思う」
「ぶっ」
 しかも何の緊張感もない口調でとんでもないことを言われ、奏太は思わず毛布を被ったまま吹き出した。
「こういうとこ連れてったら奏太どんな顔すんのかなーって。前クラブに初めて連れてったときも超ーっキョドってたし」
 あ、でも、何か思っていたのとは違うかも。何せ口調があまりにも軽すぎる。奏太は隠れていた毛布から少し顔を出した。
「でも、好きな曲かかったら『この曲好き』ってすんげー嬉しそうにしてたじゃん。さっきも『ああいう音作りたいなあ』ってさ、そういうときの奏太イイ顔してるから」
 やっぱり恥ずかしくなってきた。口調は軽いのに変な勘違いをしてしまいそうで、それを悟られまいと奏太は再び毛布で顔を隠した。
「ま、今は死にそうな顔してるけど」
 そう言うと、いきなり映之は奏太の被っている毛布を引っペがした。
「ちょっ、寒いんだから毛布取るなよ!」
「さっきまで真っ青だったのに今真っ赤だな。熱出てきた?」
「知らないよそんなの!」
 いいから返せ!と毛布を引っ張るが、映之もなかなか離さない。しばらく二人で毛布の引っ張り合いになった。
 が、結局雨に打たれて弱り切った奏太に勝つ見込みはなく、映之に毛布を全部奪われる。
「よっしゃ! 勝った!!」
「あーもう、おれマジ凍え死ぬから!」
 奏太がマジギレすると、映之がそれを見てクスクス笑い始める。
「よかった」
「何が!?」
「元気になったっしょ」
「……なってない」
 何だか物凄く疲れてきた。奏太はぐったりとその場に倒れ込む。映之と普通に話すだけでもパワーがいるのに、取っ組み合いまでしたら、ただでさえ少なくなっている気力体力ではとても持たない。
「毛布ほしい?」
「遊んでないで毛布くれよ」
 ぐったりと仰向けで寝転んだまま手を伸ばすと、その手をぐいっと引き寄せられた。
「いいよ、その代わり……」
 映之は鼻先まで顔を近付けて、ニヤっと笑った。
「チューしてくれたら毛布やるよ」
「はあああああああ!??」
 驚きすぎて、疲れとか寒さとか忘れて大声で叫んでしまった。
「な、なんで!?」
「だっておれ奏太のこと好きだからチューしてほしいなーって思って」
「おれからすんの??」
「うん。自分からするのは何かやだ」
「なっ……、それ酷くない!? したいなら自分からしろよ!」
 じゃあ、そうする。と映之はあっさり折れて奏太の唇にそっと触れるだけのキスをした。少し触れただけなのに、映之の唇は驚くほど熱かった。奏太は硬直して動けなくなってしまう。
「うーーーん」
 一方、映之は唇を離したあと、ちょっと考えこんでいるようだった。
「思ったより嫌じゃないなー。奏太はどう?」
「どうって……」
 嫌だったらどうするつもりだったんだ。奏太は突っ込む気力もなく、呆けたように映之を見上げた。青白く照らされた明るい色の髪が、ランタンの揺れに合わせて揺らめいている。
 そもそも、奏太の方が嫌がる可能性を考えていないのがおかしい。自己中ここに極まる、と言ったところか。
「奏太は嫌じゃない?」
「そ、それは」
 さっき触れられた唇がものすごく熱い。首を傾げて訊く映之の微笑が憎たらしくて、軽く頭を小突こうと腕を上げたらその腕を掴まれた。
 嫌じゃないのは確かだった。今、奏太の鼓動は呼吸をするのも苦しいくらい高鳴っていた。
「映之……」
 名前を呼んだ奏太の唇を、映之の唇が塞いだ。やはり、触れ合うだけのキスだ。でも冷え切った身体が熱く火照るほどのキスだった。
「ソータ……」
 熱っぽく囁く映之の声が耳のすぐそばに聞こえる。
「おれ、こっからどうしていいかわかんない」
「ええー!?」
 思わず変な声を出して映之を見上げる。さっきまでの熱っぽさが急にどこかに行ってしまった。
「どうするん?」
「それをおれに聞く!?」
 見かけによらず、映之がそういった場数を踏んでいないのに驚いた。しかも、それを隠す風もなく逆に聞いてくるあたり、映之の素直さと、本当に何も考えていないことがよく分かる。
 しかし奏太も勿論その手の経験なんて一切無かった。何となく分かるけど具体的には分からない。と言うより考えたことも無かった。
「わ、わかんないよ、おれだって……」
 分からない、と言いつつ頭の中で色んなことをぐるぐる考え始めてしまった。こうなったからにはあんなことしたり、こんなことしたりするんだよな、とか考えているうちに恥ずかしさで居たたまれなくなってきた。
「ま、いっか」
 そんな奏太をよそに、映之はあっけらかんとそう言うと、毛布ごとギュッと奏太を抱き締めた。
「奏太がおれのもんになったから、とりあえず満足」
 ちょっ、そう言えばこっちからは好きとも嫌いとも何も言ってない……と、思いながらも、映之の体温の暖かさが心地よく、身体を預けたままうとうとと眠ってしまったのだった。



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