フレームの曲がり方・2

第一話


 ここに着いてから一時間が過ぎようとしている。オレは時計に目を遣った後、苛立ちながらコーヒーの最後の一口を飲み干した。薄いコーヒーは胃の中に直接流れ込んできて、そんなオレの焦燥感を更に煽る。
 この駅前の喫茶店は、大して込み合ってもいないというのに煙草の煙が充満していて、オレも先輩も煙草は吸わないのに何でこんなところで待ち合わせにしたんだろうと、オレは半ば投げやりな気持ちで喫茶店内を眺めた。もう一杯コーヒーを注文しようかどうか迷う。
 というか何で一時間も遅れるんだよ。元々時間にルーズな人だったけど、連絡も無しにこれは酷すぎる。久し振りに会うというのに、オレのことなんかどうでもいいのかよ、と情けない気分になる。そう思い始めると不安は止め処なく広がってゆき、仕舞いにはもう自分は失恋してしまったんだという思い込みに囚われてしまう。
 オレは空っぽのコーヒーカップに目を落とした。底に僅かに残っているコーヒーが、お前なんかこれぐらいしか思われてないんだよ、と言っている。もう一杯注文しないと駄目だ。挫けそうになる。


 先輩はある大手の医薬品メーカーの研究職に就き、入社してからゴールデンウィークまでの一ヶ月間、会社の保養所で新人研修を受けていた。研修に行く前、電話で先輩は「幼女でもねーのに山奥に拉致監禁されるんだ」と嘆いていた。どこから拉致監禁が出てくるのかよく判らないが、ハードスケジュールであろう事は何となく察することが出来る。先輩は体力の足りない分を気力でカバーするタイプだから、無理していないか心配だ。
 それに何と言っても、付き合ってからまだそれ程経っていないというのに、一ヶ月間会えないのはオレにとって苦行もいいところだった。


 オレが二杯目のコーヒーを注文しようと顔を上げたその時、目の前にずっと待ちわびていた人が飛び込んで来た。
「悪い! 仕事が長引いちまって……待ったか?」
 先輩はそう言って前の席に座り、オレの目を覗き込んだ。
「は、はい……」
 初めて見る先輩のスーツ姿。散々遅れたことを責めてやろうと思っていたのに、オレは目の前の先輩の姿に戸惑って、結局何も言えなくなってしまった。
 あの、いつもよれよれの白衣のポケットに手を突っ込んで、猫背が癖になってた先輩が、スッと背筋を伸ばしてスーツを着こなしている。小柄なイメージがあったのに、背筋を伸ばすと意外に上背があるのに驚いた。ネクタイの柄なんかも、派手そうに見えてシャツの色と合わせてかえってシックな雰囲気になっている。服なんかどーでもいいとか言っときながら、時々こんな風に良い物選ぶんだよな。そのくせ、何のブランドか知らなかったりするのが先輩のおかしいところだ。
「悪かったな。連絡しようと思ったら携帯忘れててさ。……ん? 何だよ」
「先輩、研修って一体何やったんですか!?」
「な、何だよ突然」
 髪の毛も綺麗に整えられているし、以前の先輩の面影と言えば、ちょっと変わった曲がり方をしたフレームの眼鏡ぐらいだ。
「研修ったって、別に普通だよ。会社の理念とかサラリーマン根性とかいろんなモン叩き込まれて……。ああそうだ。今日名刺できたんだよ」
 そう言って先輩はスーツの内ポケットから一枚、紙切れをテーブルの上に置いた。『○○(株)T研究センター日用品研究開発部門 白土裕一郎』と味も素っ気もなく印刷されている。
「日用品…? あれ、先輩、医療品系の開発するって言ってませんでしたっけ?」
「ああ、そうだったんだけど、そっちのが忙しいからって……」
 忙しいって、そんな理由で決められちゃうもんなのか? そっちの方が事業的に大きいということなんだろうか。
「日用品って、実際何の研究するんですか? 確か先輩、高分子ゲルの……」
「そろそろ出ないか? いつまでここにいてもしょうがないだろ」
 オレの言葉を半ば遮るように立ち上がると、先輩は伝票を持ってレジに向かった。
「遅れたから、オレの奢りな」
 先輩に奢って貰う日が来るなんて、考えてもみなかった。レジで精算している先輩のスラッとした後ろ姿を見ながら、オレはただ戸惑うばかりだった。



 先輩と初めて会ったのは、確か学部三年の後期の頃だったと思う。物理化学実験の授業のとき、助手の先生が休みで替わりに先輩が実験助手として付いていたのだった。
 しかし、その時の先輩はよっぽど乗り気ではなかったらしく、かったるそうに実験の説明をし、質問がくると、そんな事も解らないのか、と嫌そうな顔をしていた。オレは上に怖い先輩がいるなあと思ったものだった。
 そんな先輩と親しく話をするようになったのは、たまたま教授に授業の質問をしようと研究室に行ったときのことだった。
「どうした?」
 研究室に教授は見当たらず、辺りをキョロキョロ見回していると、その様子を見た先輩がオレに声をかけてきた。
「あ、あの、須田先生に解らなかったとこ訊こうと思って」
「スブタは居ねえよ。学部の会議に出てる」
 研究室には先輩一人しかいなかった。教授はいないし、怖い先輩はいるし、オレはどうしようか頭の後ろをポリポリ掻きながら、しょうがないからまた今度にするか、と研究室を後にしようとした。
「何だったら見てやろうか?」
 頬杖を付きながら何気なく言った、先輩の一言。この一言に、オレはとにかくビックリした。実験の時はあんなに面倒臭そうにしていたのに、一体どういう風の吹き回しだろう。
「い、いいんですか?」
「まあ、オレに分かる範囲だったらな」
 オレは戸惑いながらも、先輩に授業のノートを渡して恐る恐る質問した。
「高分子物性Iの、エネルギー弾性とエントロピー弾性のとこなんですけど……」
 先輩がオレのノートをパラパラめくって読んでいる。大したことじゃないのに何故か凄く緊張して、オレはノートをめくる先輩の白い指ばかり見つめていた。
「ああ、ここ昔テストに出たぞ」
「え、マジすか」
「また出るかは分からねーけどな。えーっと、ゴムのエントロピー弾性ってのは、要は温度が上がると弾性率が……」
 実験の時とは打って変わって先輩の説明はとても判り易く、オレの質問に一つ一つ丁寧に答えてくれる。オレは授業中よりよっぽど真剣に耳を傾け、先輩の説明をノートに書き取っていった。
「勉強熱心なんだな」
 最後、先輩はノートを返しながらそう言って笑顔を見せた。オレは、この人ってこんな風に笑うんだ、とノートを受け取ったまま礼を言うのも忘れて、暫く呆けたように突っ立っていたのを思い出す。



 喫茶店から出た後、オレ達は先輩の新しいアパートに向かった。以前は六畳一間の木造アパートだったので、今度の新居は先輩曰く「広くて落ち着かない」らしい。
「腹減ったな~」
「どっか食べに行きますか?」
 アパートまでの道すがら特にこれと言った店は見当たらず、オレは駅の方に戻る道に目を遣った。
「いや、店捜すの面倒臭いから、そこの弁当屋で買ってって家で食おうぜ」
 まあた弁当かよ。先輩が指し示した方には見窄らしい弁当屋があって、久しぶりに会ったんだし優雅にディナーでも、と思っていたのが馬鹿馬鹿しくなってくる。でも、以前の先輩らしさに触れて、ちょっとホッとしたのも事実だった。
 しかしホッとしたのも束の間、先輩の部屋を前にオレは愕然とした。
「ここ、アパートっつーかマンションじゃないですか?」
「どっちでも似たようなモンだろ」
 先輩から二部屋有ると聞かされていたが、まさか2LDKだとは思わなかった。まだ片付いていない段ボールがあるぐらいで家具も無く、余計に広く見える。
「うわっ、こんな所にクローゼットがある。どーしたんですかこんな家賃高そうなとこ」
「会社が八割負担してるんだよ。このアパートの半分はうちの社員だ。バブル期の遺産ってとこだな」
 それにしたって一人で暮らすには広すぎるだろう。天井は高いし、窓も大きくて眺めがいい。ベランダまで付いている。それなのに、布団が隅っこの方に畳んであって、全然部屋の広さを有効活用していない。
「フローリングなのに布団なんですか? しかもこんな隅っこに……」
「うるさいな、オレはこっちのが落ち着くの」
 そう言うと先輩はスーツの上着をその辺の床に放り投げ、布団に突っ伏して倒れ込んだ。
「あ~……、疲れた」
「駄目ですよ先輩、スーツ皺だらけになりますよ」
 オレは放り投げられた上着をハンガーに掛けると、布団を抱え込んで丸くなってる先輩の隣に座った。
 こんな広い部屋に、二人で隅っこにいるのは何ともおかしな光景だ。オレは暫く、横になってる先輩をじっと見つめていた。こうしていると、やっぱり先輩は昔のままで、変わってしまったなんていうのは気のせいだったように思えてくる。眼鏡を掛けたまますぐに横になってしまうのだって相変わらずだ。オレは眼鏡をそっと取ってやると、初めは頬に、そして首筋に唇を近付けた。
「ん……、や、何すんだよ」
「いいじゃないですか、キスぐらい」
 勿論、段々それだけじゃすまなくなるのは自分でもよく分かっている。シャツの中に手を滑り込ませると、先輩は思わず身を捩らせた。そのまま肩を掴んで腕を回し、半ば抱え込むような格好でシャツを脱がしはじめる。
「西澤、ちょっと待っ……」
「もう待てません」
 オレは、先輩のことになると自制が効かなってしまう。まだ何か言いたげな先輩の口を唇で塞ぐと、舌を絡ませて、久し振りに先輩の唇を味わった。ゆっくり舌先でそっと触れるように絡ませる。すると次第に、先輩はオレの首に腕を回し、もっと深く口付けてきた。それだけで、目眩がするほど興奮してしまう。
「は……、あ……」
 唇を離した後、何も言わずただ見つめ合うのがオレは凄く好きだった。今も、先輩はとろんとした目でオレを見ている。オレは堪らなくなって先輩の瞼に唇を寄せると、段々胸元にまで唇を下ろしていった。
 しかし、急に腕に掛かる重みが増したかと思うと、擦り落ちそうになって、オレは慌てて身体を起こした。
「マジかよ……」
 腕の中で、先輩は気持ちよさそうに寝息を立てていた。
 オレは再び、物凄く挫けそうになった。



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