フレームの曲がり方・2

第二話


「もう内定決まったんだ。凄いね」
 オレの言葉に里佳は少し照れたように笑うと、紅茶を口に運んだ。午後の大学のカフェテラスはたくさんの人でごった返していて、オレ達の会話は周りの喧騒に掻き消されそうだった。
「一浩はやっぱり進学するの?」
「ああ、そのつもりだけど」
 その頃、オレは先輩とすっかり懇意になっていて、あの気難しい人が、気軽に話しかけてきたりメシに誘ってくれたり、自分には親しげに接してくれるのが嬉しくて、よく研究室に出入りするようになっていた。だからオレは当然のように進学するつもりでいて、ここの所は院試に向けての勉強と卒論の実験準備で忙しかった。
「ねえ、私、多分、就職先都内になると思うんだけど……」
「ん? ああ、里佳が好きなようにすればいんじゃないか」
「うん……、そうね」
 自分の内定が決まったというのに、彼女の表情は浮かない。やはり、一方が就職して、もう一方が進学するというのは心配なんだろうか。
 里佳と付き合い始めて、そろそろ一年になろうとしていた。彼女とはお互い落ち着いた付き合いをしていて、喧嘩だって一度もしたことがない。必ずそうなる前に、どちらかが一歩譲る。この時だって、またどちらかが譲り合えば済むことだと、そう思っていた。


 里佳が別れ話を切り出してきたのは、クリスマスの時だった。場違いに明るいイルミネーションの中を歩きながら、彼女はずっと下に俯いている。違う、場違いなのは、表情が暗いオレ達の方だ。
「やっぱ……、オレが就職しないから?」
 進学して学生気分の抜けないオレとは釣り合いがとれない。そういうことなんだろうか。
 彼女とは、そういう打算的な付き合いはしていないつもりだった。世間でよくある出来合いのカップルとは違うと思っていた。だからこんな形で別れを切り出されるのは、あまりに不意打ちだった。
 吐く息が白い。それなのにオレは寒さを感じなかった。ただ耳が少し痛かった。そして、場違いに明るいイルミネーションの下でずっと俯いていた里佳が、オレの言葉に顔を上げた。
「私のこと、ちゃんと見てる?」
 オレ達は、譲り合ってなんかいなかった。いつも譲っていたのは彼女の方で、オレが譲ったことなんて本当は無かったんだ。この時彼女は初めて、オレがいつもよく口にする「里佳の好きなようにすればいいよ」と言う言葉通りにしたに過ぎないのだ。ただオレたちは付き合っていただけで、それだけだった。
 オレはこの時、初めて里佳の泣き顔を見た。そしてそれは最初で最後だった。



 オレたちは、いつまで経っても衝突ばかりしている。先輩は気まぐれで偏屈だし、そのくせ要領が悪いから、オレは心配したり呆れ返ったり忙しい。この日も、本当に些細なことでオレたちは口論になり、夕食の鍋と共にオレの頭も煮えくり返っていた。
「だから何で忘れてるんですか」
「そんなん一々覚えてるわけねえだろ」
 オレが苛立ちながら具材を鍋に並べていると、先輩はおもむろに春菊を掴んで鍋に放り込んだ。
「あー、春菊は最後! 煮え過ぎたら不味くなるだろ!」
「ンなん知るかよ、オレは早く春菊食いたいの」
「先輩は鍋触っちゃ駄目! あー、豆腐崩れてるし」
「うるせえ、このクソ鍋奉行」
 別に料理が上手いわけでも鍋にこだわりがあるわけでもないが、触らせると何するか分からないのでこういうのはオレがやらざるを得ない。米を洗剤で洗うようなタイプだからな、この人は。
 そうしている内にも、鍋は無惨にも崩れ去った豆腐と大量に入った春菊でぐちゃぐちゃになっていく。でも、今重要なのは、そんなことじゃない。
「それじゃあ、覚えてるオレがおかしいって言うんですか」
「別にそんなこと言ってねーだろ」
 これは言外に、あんたがおかしいんだよ、と言っているのだが、そんなの通じるわけがなかった。先輩はオレには見向きもせずに箸で鍋を突いている。

 そう、今日はオレ達が付き合い始めて丁度一年目の日なんだ。それなのにオレがその事を言うと、先輩ときたら「あ、そうだっけ? ふーん」とだけ返してきた。「忘れてたんですか?」と訊くと「ああ」とまた一言だけ。これでキレない奴がいたら見てみたい。
 でも先輩はそんなのは気にも留めず、豆腐を箸で摘もうとして何度も失敗して豆腐をぐちゃぐちゃにしていた。どんどん細切れになっていく豆腐。それにも構わず豆腐を摘もうとする先輩。そして散々突つき回されボロボロになった具材が煮えたぎってる鍋。
 何かそんな光景を見ていると、怒っている自分が馬鹿馬鹿しくなってきて、オレは思わず笑い出してしまった。
「な、何だよ笑うなよ!」
「だって、その鍋……。豆腐、そろそろ諦めた方がいいんじゃあないっスか?」
 オレは笑いを堪えながらそう言うと、辛うじてまだ形が残っている豆腐を箸で器用に摘んで、野菜や他の具と一緒に小鉢に装ってやった。
「余計なことすんなよ、そんぐらい自分で取れる」
「取れなかったじゃないですか。ホラ、冷めますよ」
 先輩は暫く納得出来ない様子で、オレが装ってやった小鉢を睨み続けていたが、流石に空腹には負けたようで渋々箸を付けた。
 そもそも、箸で取れなかったらオタマで装えばいいものを、どうしてムキになって箸で摘もうとするかな。オレたちが付き合ってどれぐらい経ったかなんて事は、どうでもいいくせに。
「ま、先輩にとってはオレと付き合ってることより、豆腐を箸で摘む事の方が大事なんだろ」
 そんな先輩を見ながら、オレは半ば独り言のように呟いた。こんな事に拘ってる自分がおかしいのか? これじゃあまるでオレは豆腐に嫉妬してるみたいじゃないか。
「何でそうなるんだよ」
「別に……」
 ああそうだよ、どうせオレは豆腐にも勝てねえよ。と、オレはふてくされながらくたびれた春菊を口に運んだ。やっぱり煮え過ぎてる。
「何だよ、さっきから感じ悪ィなあ!」
「ちょっ、危ないから箸振り回さないでくださ……」
 制止しようと腕を掴んでも、構わず先輩は怒鳴りつけてくる。
「あのなあ、じゃあお前はどうなんだよ! 一年経ってもいまだに先輩呼ばわりでよそよそしく敬語使ってんじゃあねえかよ!」
「ええ?? だ、だってそれは……」
 ビックリした。先輩が敬語だとか名前の呼び方だとか、そういうことを気にする人だとは思わなかった。
 でも、オレにとって先輩はいつまで経っても先輩で、思わず敬語を使ってしまう相手なんだ。名前で呼ぶようになったら、それも変わってしまうんだろうか。
「じゃ、じゃあ、『裕一郎』って読んでもいい?」
 自分で言ってて物凄い違和感を感じた。もし、先輩に『一浩』って呼ばれたら、オレはきっと卒倒してしまうに違いない。
「あっ、な、何か鳥肌立ってきた……! やっぱ今の無し」
「あのなあ~……」
 言った側からこれだよ。くっそ腹立ってきた。
 オレは身を乗り出すと、先輩の箸を持った腕を掴んだまま無理矢理床に押しつけた。フローリングの床は冷たくて、先輩にもっと鳥肌を立たせてしまったかもしれない。
「ちょっ、まだ春菊が……ん……っ」
 煮え過ぎた春菊なんてどうでもいい。半ば強引に唇を奪うと、初めは僅かに抵抗をみせていた先輩も、舌が絡まる頃には大人しくなる。薄い唇が、微かに震える。
「ん……、は、あ……」
 長い口付けから唇を開放した後、先輩はいつも目を閉じたまま溜息を吐く。その仕草がとんでもなく色っぽいって分かってやってるんだろうか、この人は。
「あ、西澤……」
「これから毎日、耳元で『裕一郎』って囁いてやるから覚悟して下さい」
「や、やめろ、鳥肌立ち過ぎて死ぬ」
 それぐらいで死なれてたまるか、とオレは先輩のシャツの中に手を滑り込ませた。弱い脇腹辺りをそっと指で辿りながら、首筋に舌を這わせる。こうすると、必ず先輩はくすぐったそうに身を捩る。
「あ……っ、脇腹は駄目だって……」
「じゃあ何処ならいい?」
 背中に腕を回すとオレの手が冷たかったのか、また鳥肌を立たせてしまった。耳朶を甘噛みしてやると、今度はその背中を仰け反らせる。
 自分が触れる度に反応する身体。漏れる溜め息が、次第に自分のなのか先輩のなのか判らなくなる。いや、違う、オレは先輩を溜め息さえも全部自分のものにしたいんだ。こうして急速に追い立てて、本当に自分のものなのか確認したくてしょうがないんだ。
「西澤、ま、待てって……」
 下着に滑り込ませようとした手を掴み、切ない声で先輩が制止を訴える。フローリングの床は冷たいのに、吐く息は熱い。首筋から胸元に舌を這わせて、もっと熱くしたい。
「だから、待て、よ……っ。まだ、メシも食い終わってないし、風呂だって入ってないだろうが」
 そんなことどうでもいい。それより、早く確かめ合いたい。そうでもしないと、オレは焦燥感で押し潰されそうだ。
「オレは別に構いません」
「……オレは構う」
 低い声で下から睨み付けられ、ハッと気が付いた。慌てて身を起こす。

 床に落ちた箸と、先輩の乱れた服を見て、思わず項垂れた。ああ、まただ、オレはこんな風にすぐ自制が効かなくなってしまう。先輩は仕事帰りで疲れているんだ。多分、本当は早く風呂にでも入ってゆっくり疲れを取りたいんだろう。
「先輩、ごめん……なさ……」
「西澤」
 先輩がふいに起き上がって、オレをギュッと抱きしめた。ビックリして思わず目を見開く。目の前には先輩の背中があって、そして冷たいフローリングの床があった。
「何をそんなに焦ってる? オレはどこにも逃げない」
「先輩……」
 自制が効かないのは、自信がないからだ。自分の気持ちばかりぶつけてしまって、無理矢理奪ってしまったから、何度でも確認しないと不安でどうしようもない。
 結局、自制が効かないからその確認がちゃんと出来ずに、また不安になって、自信が無くなって、また自制が効かなくなる……そうやって自ら悪循環を生み出している。自己嫌悪に陥りそうだ。
「……オレ、駄目だ、何してもいっつも先輩の迷惑になって……」
「西澤」
 もう一度、先輩が俺の名を呼んだ。背中に回していた腕を放し、目の前に先輩の顔が現れる。今は、先輩の声さえも耳に痛い。オレは正視できずに、思わず俯いてしまった。
「オレは、お前が思ってるよりずっと……」
 先輩はそんなオレの顔を両手で持ち上げて、自分の額をコツンとくっつけた。
「……ずっと、お前が必要だ。だから、そんな顔すんな」
 唇がそっと触れて、そして柔らかく包まれた。今までしたどんなものよりも、優しい口付けだった。



2003年公開
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