密室恋愛

第一話


 今日は休日出勤だ。ついていない。
 突然入った仕事だったので、友人と久しぶりに会う約束をキャンセルせねばならなかった。
 自己中心的な性格の田辺にとって、人の失敗の尻拭いほど嫌なものはなかったが、こればっかりは上司の命令なのでどうしようもない。
 というのも昨日、田辺の後輩の某旧帝大卒君が、顧客データ消去というとんでもない快挙をしてくれたのだった。不幸中の幸いか、会社のサーバにバックアップしたデータは残っていたが、実に一週間分のデータが消えて無くなってしまった。何とか残っていた書類から顧客データを拾い集めて、再びデータベースに入れていかなければならない。
 何で言われたとおりにマメにバックアップを取っておかなかったのか、というかそもそも何でデータを損失してしまったのか、気が抜けてるとしか言いようがない。それに対しての謝罪もうやむやで、何でこんな奴が俺の下に、と田辺は苛立ちを隠せない。
 いや、それよりも田辺を苛つかせているのは、上司の千川主任だった。田辺が後輩にその非を責め、データの入れ直しをさせようとしたとき、「大事なデータを人に任せたお前が悪い」と責任を全て田辺に負わせ、今日、休日返上でデータの入れ直しを命じたのだった。抱えているプレゼンの準備やらで忙しいのに、こんな雑用など馬鹿馬鹿しくてやってられない。田辺は「一体こいつは何を考えているんだ」と憤懣やる方なかった。
 千川主任は所謂若手のホープという奴で、あっと言う間に主任の地位を獲得し、その内一足飛びに課長になるのでは、と言われるほどのやり手だった。特に高学歴という訳ではなかったが、それだけに実力は確かなもので、上司達の間でも評判が良かった。
 その上嫌味を感じさせない綺麗な顔立ちで、女子社員の間での人気が非常に高い。田辺が一番気に入らない理由は実はそこだったりする。自分の方がいい大学に出ていて、背も高いし、顔だって負けてはいないはず。仕事はしっかりこなしているし、あと一、二年経てばあれぐらい出世出来るはずだ。田辺は自分の性格の悪さを棚に上げ、そんな事を勝手に考えていた。



 休日の支社ビルは恐ろしいほどガランとしている。
 創立時からろくに改装もせず、非常に古いビルだった。バブルの時に改装しておけば良かったのだろうが、不況の今となってはそんな余裕はないようである。
 田辺は昼前からずっとデスクにかじり付き、顧客データを正確且つ迅速に入力していった。仕事はキッチリと確実に完璧にこなすのが彼の信条だ。だからこんなヘマは自分の失態ではないとはいえ、どうしても許し難い。しかもあの主任ときたら、自分の責任だと言って押しつけてきた。当て付けだとしか思えない。
「田辺、まだいたのか」
 ガランとしたオフィスに、突然響く声。千川主任だった。
「……! 主任、どうしたんですか」
 田辺はパソコンから不機嫌そうな顔を上げてそちらに向けた。デスクに鞄を置いて、ノートパソコンを開いている千川主任の姿が見える。清潔感のある顔立ちとよく通る声。身に着けているスーツはよくある安物のようだったが、決してそれがマイナスになっていない。一々ブランドに拘ってスーツ選びをする田辺とは大違いだ。
「ああ、得意先が突然トラブってね。今までそれの処理に当たってたんだ。いやあ、参ったよ」
 そう言って困ったように笑う仕草も爽やかだ。逆に田辺は更に不機嫌な顔になる。この笑顔に上司も女子社員も騙されてる。
「どうだ、田辺、終わりそうか」
「あと少しです」
 田辺はぶっきらぼうに答える。千川主任は「そうか」とだけ言うと、自分のノートパソコンをLANケーブルに繋げ、黙々と入力作業を始めた。田辺はそれを横目で見ながら、休日出勤を押しつけたというのに、その事を何とも思ってなさそうな顔で接してくる千川主任が苛立たしくてしょうがなかった。そんな事するから自分も休日出勤する羽目になるんだ。いい気味だ、と田辺は心の中で毒突いた。


「ふー」
 やっと全部の作業が終わった。田辺は腕を上に上げ、大きく伸びをした。外を見るともう日が暮れはじめている。
「終わったのか、田辺」
「あ、はい」
「そうか、じゃあ俺も切り上げて帰るか。戸締まり頼んだよ」
 田辺の返事も訊かず、千川主任はさっさと帰り支度を始める。田辺は文句を言うわけにもいかず、渋々戸締まりをし、エアコンやパソコン周りの電源を確認した。
 オフィスを出ると、さすがに先に帰っては悪いと思ったようで、千川主任がエレベーターの前で待っていた。
 それは良いのだが、エレベーターを待っている間、嫌な沈黙が続くことになった。二人に共通の会話など無い。田辺は早くエレベーターが来て、そしてさっさと家に帰って風呂に入って寝たい、ということしか考えなかった。
 エレベーターが、チーンという間抜けな音をさせて到着した。二人は無言で乗り込む。
 千川主任は一階のボタンを押した。田辺は反対側の壁に怠そうに寄り掛かっている。


 突然、ガクン、という振動が二人を襲った。
 上の方にある階数表示が三階と四階の間を指し示している。二人は思わず顔を見合わせた。エレベーターが緊急停止したのだ。
「と、止まったな」
「そうですね……」
 このエレベーターは創立時からある古いものだ。中から外の様子は伺えない。非常に狭く、タタミ二畳分も無いのではないのだろうか。床には埃をしっかり吸い込んでしまったような絨毯が敷き詰められている。
 通気孔があるだけで何もないのに、二人は思わず上を見上げた。ただ三階と四階の間を指し示している階数表示が、エレベーターが止まったという事実を告げていた。
「そうだ、主任、そこにある緊急連絡用のボタンを押して下さい。外部と連絡が取れますよ」
 そう言って田辺は真ん中に受話器のマークがある黄色いボタンを指し示した。
「こ、これか?」
 恐る恐る千川主任はそのボタンを押す。
 しかし何度押しても何の反応もない。千川主任はヤケになって何度もボタンを連打した。
「くそ、これインターホンじゃないのか? 守衛は何をしているんだ」
「ひょっとしたらそれ、守衛室ではなくエレベーターの管理会社に繋がっているのかも」
「だとしても、インターホンが繋がらないのはおかしいじゃないか」
 確かに、その通りだった。エレベーター内の蛍光灯は点いているので、電気は通っているはずなのに外部からは何の反応もない。もし停電しているとしても、非常用電源が確保されているはずであり、全く連絡が取れない状態というのもあり得ないはずであった。
「ま、騒いでもしょうがないですし、動き出すまでのんびり待ちましょう」
 田辺はネクタイを緩め、壁により掛かった。何気なく操作盤の方に目を遣ると、上の方に○○ビルテクノサービスと表示がしてあり、そこにはその会社の電話番号が記してあった。何となくそこに携帯で電話してみれば良いんじゃないかな、と思っていると、千川主任も同じように考えていたようで、鞄から携帯を取り出していた。
「……どうしたんですか?」
 千川主任はさっきから携帯の液晶をじっと見つめたまま動かない。しばらくしてやっと顔を田辺の方に向けると、「電波が入ってない」とだけ言った。
 会社のオフィスの方には勿論電波は届いている。しかし、エレベーター内で携帯を使ったことはなかった。田辺は自分の携帯を取り出し、電波を確認した。圏外表示ではなかったものの、電波強度を示すフラグが一本も立っていない。とりあえずかけてはみたものの、繋がる気配は全く見られなかった。
「何てこった、このボロビルが……!」
 元々、会社内の携帯の電波感度もあまり良いとは言えなかったが、それ程不便にしていたわけでもなく、特に整備しようとしていなかった。
 いつもそうなのだ、この会社は。ビルの改装も、このエレベーターのメンテナンスも、何か起きてからでないと何もしようとしない。
 千川主任は何か諦めたように、鞄を床に放り投げた。



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