密室恋愛

第二話


 それから、10分が経過した。
 田辺はさっきから腕時計ばかり見ていた。他にすることがないのだ。時間が進む度にその1分1分が酷く長く感じる。今日は本当にとことんついていない。厄日だ。
 何気なく千川主任の方に目を向けた。主任も同じように腕時計を見て、苛立たしそうにしている。あまりこういう表情を表に出さない人だけに、相当苛立たしさがピークを迎えているのではないかと田辺は思った。繋がらないと判ってても、インターホンのボタンを押したり、携帯を見たりしていて落ち着きがない。
 それに何といっても、あの主任が汗をかいているのだ。脂汗のように、額から滲み出ている。
 狭いエレベーター内に大の男二人、というのは確かに暑くなって当然かもしてない。しかし季節柄外は寒かったし、休日だからさっきまで自分たちがいた七階以外は、はじめからエアコンが切ってある。それに、田辺自身は汗をかく程暑くはなかったのだ。
「くそ、何で外の奴らは何も気付かないんだ。第一守衛は何をしている。やっぱり警備会社に頼めば良かったんだ!」
 千川主任は乱暴に、エレベーターのドアを叩いた。
「ちょ……、落ち着いて下さいよ、主任」
 大して大きいビルでもないので、警備は警備会社に委任せず独自に警備員を雇ってさせていた。その殆どが定年後の男性である。千川主任はその事を言っているようであった。
「警備会社に委任しておけば、こういう時真っ先に駆けつけるだろうが」
 親指の爪を噛みながら、千川主任は吐き捨てるように言った。相手が焦っていると逆に自分は冷静になる。この人がこんな事を言うなんて、と田辺は珍しい物を見るような気分で千川主任の顔を覗き込んだ。
「それにしたってもうちょっと時間かかりますよ」
 もっと不安を煽ってやろうか、とも思ったが、さすがにそれは止めておいた。自分も置かれている状況は同じなのだ。
 しかし、そんな田辺の余裕も、次の千川主任の言葉で脆くも崩れ去った。
「休みの日まで働いて、何でこんな目に遭わなきゃいけないんだ」
 それまで、どこか主任の慌て振りを面白がっていた田辺だったが、それを聞いてさっきまで抑えていた主任への憤懣がまた甦ってきた。非常識な命令をしておきながら、その事をすっかり忘れて自分は被害者面している。
「……こっちだって、あんたに休日出勤を言い渡されなければこんな目に遭わずに済んだんですよ」
 自分は落ち着いていると思っていた田辺も、実は冷静さなどとっくに欠けていた。でなければこんな事、上司である千川主任本人に言うはずがなかった。
「田辺? お前それ本気で言ってるのか?」
 見る見る千川主任の顔が険しくなる。いつもの落ち着いた表情からは想像もできない顔だ。エレベーター内というあまりに狭い空間で、外部との接触が完全に遮断されている。そんな中で、冷静でいろ、という方が無理なのかもしれない。
「お前、認識が甘いのと違うか? 何で自分があのデータ入れ直しをやらされたのか、何にも分かっていないんだな」
「なっ……」
 予想外の千川主任の言葉に、田辺は言葉も出なかった。
「田辺、お前、自分は周りの人間より一段高い所にいると思っていないと気が済まないタチだろう。周囲と比較して、自分の優位性を示さないと安心できないんだろう?」
 田辺の驚愕をよそに、千川主任は続ける。エレベーター内の空気が一気に張りつめた。
「あんな雑用、後輩にやらせておけばいいとか思ったんじゃないか? 結果、お前はあいつにあの顧客データを任せられると判断した事になる。だが同時に、その判断にはそれだけの責任がのし掛かってるって事になるんだ。そんな事も分からんようじゃ、いつまで経っても『使われる側』のままだぞ」
 千川主任は下から田辺を睨み付け、一瞬も怯むことなく吐き捨てた。反論することさえ出来ない田辺は、殴りかかりたくなるのを必死で堪えた。この、何もかも判りきったような顔を、目の前から消し去ってしまいたい。


 次の瞬間、本当に千川主任の顔が目の前から消え去った。
 いや、それだけではなかった。視界にある何もかもが消えたのだ。
「な、何だ!?」
 田辺は周囲を見回した。よく見たら完全に消え去ったわけではないことが判った。上を見上げる。非常用の黄色い頼りなげな電球が点いていた。蛍光灯が消えたのだ。
「一体何なんだ? 何が起こった?」
 もう一度辺りをじっくりと見回した。ようやく目が慣れて、非常用電灯のお陰でそれ程暗くなってはいないと分かった。しかし、今になって蛍光灯が消えるとは、一体どういう事なんだろう。田辺は、自分が冷や汗をかいていることに気が付いた。自分だけはパニックに陥るものかと、拳を爪が食い込むほど握る。


「……イヤだ」
 すると、下の方から声がした。何故下の方から? と田辺が訝って下を見下ろすと、座り込んでうずくまってる千川主任がいた。
「イヤだッ、もうこんな所、出る……!!」
 勢いよく立ち上がったかと思うと、エレベーターの扉を無理矢理こじ開けようとした。
「ちょっ……、主任、何やってんですか!」
 田辺は慌てて千川主任を扉から引き剥がそうとした。それでも主任は止めようとしない。
 僅かに重い鉄の扉が動いたが、2センチぐらい開いたところで動かなくなってしまった。乏しい灯りからうっすらと、扉の向こうの剥き出しの鉄筋コンクリートが見えた。
「くそ、離せよ、俺はここから出るんだッ!」
「どーやって出るっていうんですか」
「とにかく出る、離せ!!」
 暴れる千川主任を、田辺は無理矢理壁に押しつけた。しかし、多少田辺の方が体格が良いとはいえ、大の男が本気で暴れているので取り押さえようがない。
「一体どうしたって言うんだ、くそ、暴れるなッ、エレベーター揺れるだろ!」
「離せ、田辺っ、上の通気孔から出てやる……!」
「突然動き出したらどうすんだ! あんた、気でも違ったか!? 」
 何とか腕を掴み壁に押しつけて、本当に正気を保っているのかどうか千川主任の顔を覗き込んだ。暗がりでもハッキリ分かるほど顔の血の気が引いていて、眼が潤んでいた。掴んだ腕が僅かに震えている。
「主任……ひょっとして、閉所恐怖症とか、暗所恐怖症とかいうやつ?」
 田辺は思わず、ちょっと小馬鹿にしたような口調で言ってしまった。
「ち、違……っ」
 千川主任の肩が小さく揺れた。血色の無かった顔が見る間に赤くなっていく。
「子供の頃押入に閉じこめられたとか? だからこんな程度でパニクってるのか?」
「違う!」
 半ば泣き叫ぶような声で千川主任は否定した。もう殆どそれは肯定と受け取って良いような否定の仕方だった。
「こんな長い間連絡さえ付かないなんておかしいとは思わないのか!? 自力で脱出するしかもう方法は残っていないんだ!」
「確かにおかしいとは思うけど」
「だったら離せ、くそ、邪魔だ!」
 田辺は、自分は何か別の人間と話をしているような、そんな気さえした。この、前後もなく泣き叫んで自分の腕の中でもがいている男が、あの千川主任? 要領が良くて、人当たりが良くて、いつも落ち着いていて、でも何処か人の事を見透かしているような、あの人が?
「もうこんな所いたくないっ! 出るんだ!」
「出るにしろ何にしろ、まず落ち着つかないと何にも出来ませんよ」
「俺は落ち着いてる……っ!」
 喚き声を聞きながら、田辺は段々自分が妙に冷めてくるのを感じた。さっきまであった主任への憤懣も、何だかどうでもよくなってくる。こういう状況だったら寧ろパニックに陥る方が普通なのかもしれない。千川主任は相変わらず震える声で泣き叫びながら、田辺の手から逃れようと滅茶苦茶にもがく。さっきから全く落ち着く気配すらない。田辺は一つ、溜息を吐いた。
「怖いのは判るけど、とにかく静かにして下さい」
「こっ、怖くなんかな………ん……っ!!?」
 千川主任の顎を乱暴に掴んだかと思うと、さっきから喚き散らしているその口を、田辺は無理矢理塞いだ。自分の唇で。


 暫く、恐ろしいほどの静寂が辺りを包んだ。千川主任に至っては、呼吸すら止まってしまったようだ。田辺は舌を無理矢理ねじ込む。主任の口の中は乾ききっていた。勿論自分のも。
「ん……っ、んんっ……!」
 何が起こったか判らず硬直していた千川主任だったが、漸く事態を飲み込んできたようで、必死になってそれから逃れようと暴れ出した。乾いたお互いの舌が、絡み合うとふいに湿り気を帯びてくる。
「……んんっ……ふ、う……っ」
 千川主任は身体を押しのけようと腕に渾身の力を込める。しかし田辺は上手く身体を動かし、更に身体を密着させた。スーツ越しにお互いの体温が伝わってくる。その暖かさが、この場にあまりにそぐわなくて妙に興奮を呼んだ。
 それでも千川主任は抵抗を止めなかった。すると田辺は、片手を後頭部に回すと、もう一方の手で顎を掴み、無理矢理口を開かせた。更に口腔の奥まで舌を侵入させる。
 さっきまで乾ききっていた口内が、すっかり唾液で濡れていた。溢れた唾液が顎を伝う感触に、千川主任は肌を粟立たせた。舌を思い切り吸われたり、歯の裏を舌で辿られたり、口内に舌が這う度に腰に力が入らなくなっていく。
 そんな千川主任の様子を感じ取った田辺は、足の間に自分の片足を割り入れた。既に血液が集まりだした千川主任の下半身が、それに反応して身体をビクつかせた。
「ふ…、……んっ……んん……」
 田辺は、千川主任の吐息が段々熱いものに変わってくるのを感じた。うっすらと目を開けると、涙を滲ませて口から唾液を滴らせている千川主任が見えた。汗で額に前髪が張り付き、苦しげに眉を顰めている。田辺がもう一度差し入れた足を動かすと、主任は思わず田辺の背中に腕を回した。
「……んあ……、ん……」
 口付ける方向を変えると、さっきまでの性急なキスから優しく舌を絡み合わせるようなキスに変えた。千川主任は、恐る恐るそれに応えて自らの舌を差し出す。舌が絡むと時折吐息混じりに甘い声を漏らして、田辺の腰を更に疼かせた。千川主任も腰を擦り付けるように縋り付いてくる。暗くて狭いエレベーター内に、お互いの吐息とスーツの擦れ合う音だけが響いていた。


 突然、視界が明るく開けた。
 吃驚してお互い飛び退いて離れる。
 上を見上げると、蛍光灯が点いていた。今度は一体何なんだ? と訝しんでいると、ガクンという振動が起きて、何か下に動いているような感覚がした。二人は思わず顔を見合わせた。
 チーンという間抜けな音がして、扉が開いた。見慣れた一階のロビーが前方に広がっている。二人はもう一度顔を見合わせると、慌てて床に落ちていた鞄を拾い、エレベーターを出た。
 会社の外に出ると、日が暮れたばかりのようで街灯がぽつぽつとつき始めていた。それでもさっき居た場所に比べれば随分明るい。確か仕事が終わった時、日はもう暮れ始めていた事を考えると、それ程時間は経過していないようだった。
 二人は暫く気が抜けたようにその場に立ち尽くしていたが、お互い視線が合うと、いつものように無言で軽い会釈だけの挨拶をし、それぞれ反対の方向の家路に就いて行った。



2002年公開
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