掠れた靴音、その後

第一話


 最近、大分日が長くなってきた。
 日は沈んでいたが空はまだその名残を残し、暗くなりきれないでいた。夕方の焦燥感の中で、いつも通っている帰り道がどこか頼りなげに見える。吉野は特に急いでいるわけでもないのに、少し歩く速度を早めた。
「何だ、帰ってたのか」
 吉野は乱雑に脱ぎ捨てられた靴を見て、部屋の奥の方に声をかけた。
「おう、邪魔してる」
 部屋に入ると、すっかりくつろいだ格好の掛川がいた。TVを見ながらベッドに寄り掛かり、煙草を吹かしている。
「おい、部屋で煙草吸うなって言っただろ」
 上着を脱ぎながら、吉野は鬱陶しそうに煙を扇いだ。
 吉野は昔から煙草が苦手で、髮や服に匂いがつくのも大嫌いだった。ましてや自分の部屋で煙草なんて吸われた日には、一日中喚起をしてないと気が済まないくらいだ。掛川を台所の換気扇まで追いやり、空気を入れ換えるために部屋の窓を開けた。
「何度言えば分かるんだよ。俺の家で煙草は吸うな」
「悪い悪い、だって吉野さん、思ったより早く帰って来たからさ」
「あのな……俺がいなくてもダメだっての」


 最近では、会社の独身寮に住んでいた掛川が吉野のアパートに入り浸るようになっていた。寮だとさすがに同僚の目があったりして居辛いのだ。それに、掛川の勤務時間は変則的で、そうでもしないと二人の時間が確保できないというのもある。
 親しくなっていくと、段々お互いのこともよく知るようになっていく。吉野は掛川のことでショックを受けることが度々あった。
 まず、自分より大分年下だったこと。掛川は今年入社したばかりの新入社員だったのだ。
 新人とは思えない落ち着きと余裕があり、吉野はとてもじゃないがまだ二十二だとは思えなかった。初めて聞いたときも「嘘ばっかり」と言って笑い飛ばしたが、免許証を見せられてやっと納得したのだった。
 自分と同い年か、ちょっと上くらいだと思っていた吉野は、これにはかなりショックだった。何故なら、今まで年下と付き合ったことがなかったからだ。煙草と同じように、吉野は年下も昔から苦手だった。


「あ! スーパードライ、あと一本しかないじゃないか!」
 台所で冷蔵庫を開けながら、吉野は掛川を睨み付けた。掛川は何食わぬ顔で、スーパードライの空き缶を灰皿代わりにして煙草を吹かしている。換気扇の方を向いているから吉野に背を向けていたが、大体どんな顔をしているかは想像できた。
「あと一本あるから良いじゃないか」
「一本じゃあ足りないよ……。メシ食うときと、フロ上がりと、少なくても二本いる」
「あんま飲み過ぎるとビール腹になるぞ」
「そりゃお前だろーが」
 吉野は掛川にどつきながら、部屋のテーブルに転がってるビールの空き缶を恨めしそうに目をやった。それを見て、掛川がやれやれ、と言う仕草をして
「しょーがないなあ……まだ焼酎が残ってるだろ? 俺、晩メシ作ってやるからさ」
 と言って煙草を揉み消すと、冷蔵庫の野菜室をあさった。
「焼酎か……。俺、ビール党なんだけどなー」
 そう言いながらも吉野は、掛川が夕飯を作ってくれるというので、満更でもない笑みを浮かべた。
 掛川は、顔に似合わず結構料理が上手かった。これも、彼と親しくなって吉野が驚いたことの一つだった。
 一人暮らしを始めて大分経っていたが、近くのスーパーの総菜かレトルトを適当に食べる程度で、殆ど自炊らしきものはした事がなかったし、外食も多かった。掛川が家に来るようになり、料理をしようとしたときに初めて、おたまもフライ返しも無いことに気付いたくらいだった。
「お前さ、味噌汁作るときとかどーしてたんだ?」
「だってあんま作らないし……。スプーンで混ぜて、鍋ごと食ってた」
「……何か、スゲー不味そう」
 テキパキと台所で料理の仕度をする掛川を見て、吉野は何となく、この台所はもう自分のものではなくなってしまったような気がした。彼が来るようになってから、色んなものが増えたし、美味いものも食べられるようになった。でも、この台所はもう自分のものではなかった。
 吉野は暫く、掛川が忙しく料理の仕度をするのを眺めていたが、狭い台所に男二人はさすがに辛いので、部屋に戻ることにした。



 おかずが二品有る。
 それだけで凄く豪華な食事に見えるから不思議だ。
 吉野は目の前に並んだ料理に満足そうに笑みを浮かべた。吉野は、普段あまり喜びを表に出すタチではなかったが、食べ物になると違った。本当に心から嬉しそうな顔をして食べるのだ。こんなに嬉しそうに食べるくせに、食べ物に頓着していないところが吉野のおかしいところだった。
「このホウレン草、美味いな~。うん、本当美味いよ、これ」
「……それ、小松菜だよ」
 掛川は半ば呆れ気味に野菜炒めを頬張る吉野を見ていたが、味が良く判っていなくても嬉しそうに食べてくれたらそれでいい、と思っているようだった。
 初めて掛川が食事を作ったとき、やたら感動していたのを思い出す。特に凝った料理ではなく、ごく普通の家庭料理だったが、料理を作る、ということは吉野にとって職人芸かなんかみたいなものらしい。
「俺、緑色の菜っぱってみんなホウレン草に見えるんだけど」
「キャベツとレタスの区別ぐらい出来るんだろーな」
「そ、それぐらい出来るよ……。あ、何か馬鹿にしてるだろ」
 今まで嬉しそうに味噌汁を啜っていた吉野が、ちょっと不機嫌そうにふてくされた。
「お前に料理させたら、レタスでロールキャベツとか作りそーで怖えーよな……」
「やんねーって。それに料理なんか絶対しないし、俺」
「あ、その前にロールキャベツが何なのかよく分かってねーか」
「……お前、本当口悪い」
 でも本当のことなので、吉野は反論の余地が無かった。何か、キャベツで巻いてあるんだよな、程度の認識しかなかったからだ。
 このまま話が進んでいくと不利になりそうだと考えた吉野は、話の論点をずらした。
「そうだよ、お前、初めて会ったときは、あんなに礼儀正しくて優しそうだったのにさ」
 そうなのだ。初めて会ったとき、掛川はとても礼儀正しく、物腰も柔らかで言葉遣いも丁寧だった。
 化けの皮が剥がれていったのはいつだったか、いつの間にか普通に受け入れていたが、それでもその顔でそんなこと言うか? と思うこともしばしばだった。吉野が掛川と付き合ってから、一番ショックというか、ビックリしたのが掛川の口の悪さだった。
「う~ん、そうだよな、あの営業用スマイルには俺もマジでビビった」
「あ、あのな~」
「いや、一応接客業だからさ。……ん? 優しそうだったって?」
「そう見えただけだっ。実際は全然違ったし」
「そうかな? 俺優しいと思うけど」
 そんなこと真顔で言うな、と吉野は心の中で毒突いた。
「お前だって、初め会ったときと今じゃ全然印象が違うぞ」
「え、そう?」
 吉野は逆にそんな事を言われるとは思っていなかったので、心外そうな顔をした。
「なんつーか、もっと神経質そうな感じだと思ったんだよな。エリートの営業マンって言うか」
「……悪かったな。三流企業のヒラ社員で」
「悪いなんて言ってないだろ」
 ふてくされたような顔をしている吉野の頭を、掛川は眼を細めて微笑んで、くしゃっと撫でた。掛川の時々見せるこういう表情に、吉野は凄く弱い。こういう余裕のある表情を見せられると、やっぱり年下だなんて思えない。こんな顔して、自分の髮を掻き分けたり弄んだりされると、何でも言うことを聞いてしまいそうで怖い。
「ちょ、ちょっと、今メシ食ってる最中だろうが」
 吉野の髮を弄っていた掛川が、耳に息を吹きかけてきた。耳の後ろに軽くキスをされる。
「だって吉野さん怒ってるみたいだったからさ」
「別に怒ってないよ」
「本当に?」
「本当だってば。それよりメシ……んっ……」
 茶碗を持ったまま顎を引き寄せられ、唇を塞がれた。慣れたように舌を差し込まれる。
「……オイスターソースの味がする」
「俺の口で味見するなっ。そういうのはメシが終わってからにしろって」
 食事中にキスをするなんて、以前の吉野だったら断固拒否して触れることさえさせなかっただろう。そういう何かだらしがないのは嫌いなのだ。でも、相手が掛川になると、その拒否もどこか弱腰だ。
「俺はしたいときにするの。お前、酒飲み出すとすぐ仕事の愚痴言い出すし」
「わ、悪かったな……」
 吉野は泣き上戸だ。実際泣いたりはそんなにしないのだが、酔うと泣きそうな顔で弱音ばっかり吐く。掛川はそれに文句を言いながらもよく付き合ってくれていた。
 近頃はいつも夕飯を食べながら晩酌をしていたので、後半は吉野の愚痴大会になることがしばしばあった。勿論今日も、食後の晩酌で段々吉野は愚痴モードになってきた。
「で、今日また白石課長、誰かに虐められたん?」
「まだ何も話してないっつーの」
 虐められる、と言うのは口の悪い掛川のシャレだが、吉野は年下の上司にヘコヘコ頭を下げる白石課長のことをよく話題にしていたので、掛川はそういうイメージを抱いているようだった。
「だって、課長、すぐ部下を庇うから……それなのに誰もフォローしないし」
「そんなにその課長のこと気になる? 吉野さんはどう思ってるんだ、そいつの事」
 掛川は明らかに不機嫌そうな顔で吉野の顔を覗き込んだ。こういう思ったことがすぐ顔に出るところは、やはり年下なんだなという気がして少し安心する。
「馬鹿、白石課長はそんなんじゃないよ。お前もあの人の顔見たら判る」
「でもやっぱ気になってんじゃないか」
「だからそういうんじゃないって」
 妙にヤキモチを妬いている掛川を可愛いと思いながらも、吉野は実際自分はあの人のことをどう思っているんだろうと考えた。


 あの、幸の薄そうというか抜けきってしまったような顔、小さい背中を思い浮かべると、同情とかそんな言葉しか思い浮かばない。自分が、ああはなりたくないなと思っているように、他の同僚もそう思っているだろう。近寄ると一緒になって上司に怒られそうなので、要領のいい連中はあまり関わらないようにしている。白石課長の仕事の遅さや効率の悪さは、やはり変えられない事実なのだ。
「でも……みんな、あの人に庇ってもらってるって、気付いていないんだろうな」
 今まで自分も、そうだった。だからと言って何かしたわけでもなく、ただ、そう思うようになったに過ぎない。
「あー、もう、その話は終わり! これ以上ぐちぐち言ってると、押し倒すぞ」
 と、言ってる側から掛川は吉野の肩を掴むと、勢いよく床に押しつけた。
「ちょ、ちょっと待て、じゃあ、どっちが上になるか決めよう。ジャンケンでいいか」
 実は、二人ともあまり下になるのは好きじゃなかった。でも最近掛川は実際身体を繋ぐのが好きになって来たようで、吉野は渋々下になることが多くなった。勿論、交代でと決めていたのだが、どうも押しの弱さで負けてしまう。
「えー。ジャンケンなんかつまらん。何かもっと面白いので決めよう」
 掛川はそう言うと辺りを見回して、おもむろにTVをつけた。
「今日のプロ野球の結果で決めようぜ。阪神が勝ったらお前が上。負けたら俺が上」
「待てよ、それじゃ賭けになってない……」
 吉野の抗議の声も聞かず、掛川は「スポーツニュースは……」とか言いながらTVのチャンネルを変えている。
「お、いい感じに負けてるよ。ヤクルトに8-0。さすがだな」
「あのな~」
「じゃ、そう言うことで。風呂入ってこいよ」
「……まだ俺はいいって言ってないぞ」
 吉野がふてくされると、掛川はクスッと笑い、得意の笑顔で「顔に書いてある」と言いながら吉野の頬を軽く撫でた。その仕草が一々格好いい。そして吉野はやっぱり掛川の笑顔に弱いのだった。
「わ、わかった……入ってくるよ」
「何だったら一緒に入る?」
「狭いから嫌だ」
 吉野の家の風呂は狭いユニットバスで、とてもじゃないが男二人は入れない。
 それに掛川は、泊まり明けの日は昼前に帰ってくることが多いので、大抵帰ってすぐ風呂に入っている。なので、二人の入浴時間が重なることは滅多にない。言い換えれば、二人の生活時間帯はバラバラなのだ。



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