掠れた靴音、その後

第二話


 吉野が風呂から上がってくると、掛川はもうベッドの中で寝息を立てていた。TVが付けっ放しなので、きっとうたた寝してしまったのだろう。吉野はTVを消すと、そっと布団を掛けてやった。
 掛川は二十四時間勤務で、非常に忙しい。酷いときは四日家に帰れないことがあった。勤務中は、終電と始発の間に仮眠をとるだけで、食事時間以外殆ど休憩らしき休憩がない上に、乗客の安全などに対する責任もある、キツイし神経を使う現場の仕事だ。それなのに、掛川は吉野と違って仕事の愚痴を言ったことなど一度もなかった。
 以前その事を訊いたとき、掛川は「好きな仕事だから」と言って笑ったのを思い出す。適当にやってるよ、なんて言いながら、来月からは駅務から車掌見習いで車両に乗り込むと嬉しそうに話していたりして、この仕事が楽しいというのが滲み出ていた。
 それに引き替え、吉野が社会人1年目の時は周りの忙しさに追い立てられ、これが定年まで続くのかと悲壮感さえ漂っていた。いや、今もそんなに変わっていないだろう。だから、そんな掛川が眩しくて……羨ましかった。
「……俺なんかで、いいのかな」
 吉野は思わずそう呟いた。彼のことを知れば知るほど、その不安は増していく。
 初めに戸惑った彼の口の悪さも、自分よりずっと年下だったことも、煙草を吸うことも、料理が上手かったことも、暫くすれば当然のように受け入れていって、むしろ彼の魅力になっていった。
 でも、彼を知っていく内に、一番の魅力は仕事に打ち込んでいることだと思うようになった。だから、そんな彼を見るたびに、吉野は不安と愛しさが一緒に込み上げてくるのだった。自分だけ取り残されるような、不安。


 すると突然、後ろから思いっ切り頭を小突かれた。
「いてっ」
「何言ってんだよ、吉野さん」
「わっ、お前、起きてたのかよ」
「布団掛けてくれただろ、それで目が覚めた」
 下からじっと睨まれる。少し乱れた髪が、とても扇情的でドキッとした。
「あのな、俺、お前にはじめて声掛けたときも、告ったときも、凄い勇気いったんだぞ。それを何だ、俺なんかでいいのかなって……アホか」
「アホって、お前な……」
「何でそんなに自分に自信が無いかな」
「だ、だって」
 最後まで言い終わらない内に、掛川のキスが降ってきた。彼はいつもこんな風に突然キスをする。
 舌を絡めたままベッドの中に引きずり込まれ、そのまま更に口腔の奥まで舌が侵入してくる。舌が絡まるたびに甘い疼きが身体の何処からか沸き上がってきて、舌先が痺れそうになる。
「は、あ……」
 唇を離すと、お互い暫く呆けたように見つめ合った。さっきまで自分が考えていたことなど、こんな風にキスをすれば、凄く些細なことに思えてしまう。いつもキスばかりしていられればいいのに。本当に馬鹿げた考えだけれど、今はそう思ってしまう。
 掛川はもどかしそうに上着を脱ぐと、身体をぴったりと密着させた。吉野のまだ少し水気が残っている肌が、吸い付くように触れる。
「同じシャンプーの匂いがするのって、何かいいな」
 首筋に顔を埋めながら掛川が呟いた。ドラッグストアで安売りしているようなシャンプーだったが、二人で同じ匂いを共有しているというのは嬉しいものだった。
「あ、待って、俺まだ髮乾かしてない」
「いいよそんなの」
 そう言って掛川は後ろから吉野を抱くと、首筋を唇でそっとなぞって肩にキスを落とした。
「ん……でも、布団濡れちゃうからさ……」
「他のモノで濡れるし別にいいだろ」
「なっ、お前なあ……」
 吉野が顔を赤らめて振り返ると、掛川はニヤッと笑ってさっきより強く抱きしめる。もう固くなっているモノを押しつけられ、思わず腰が疼いて吉野は甘い溜め息を吐いた。早く欲しいと思ってしまう。
「ん……っ」
 後ろから抱かれたまま、胸元に手を這わせ背中を舌でなぞられ、胸の突起を指で転がされる。快感で身体を仰け反らせると、へこんだ背中の部分を舌が這ってきた。肌が泡立つほど腰が甘く疼いてゾクッとする。
「あ、あ……っ」
 吉野の声が段々濡れたものに変わってきて、同じようにペニスもトロトロに濡れてくる。それなのにまだ掛川の舌は背中を這い、吉野自身のものには手も触れてくれない。吉野はもどかしくなって、掛川の手を自らのものに導いた。手が触れるとどうしようもない快感が身体を貫く。
「俺、も……、駄目……」
 軽く扱かれて、唇を噛んで快感に耐えた。先の方を撫でられると透明の液が掛川の手に零れる。下半身が甘く疼いてしょうがない。
「堪え性がないよな、吉野さんは」
 吉野のそんな姿を笑って、掛川が耳元で囁いた。そのまま耳朶を甘噛みされる。
「うっ……そんな事無いぞ」
 妙に悔しくなって、吉野は振り向くと、掛川の下肢に顔を埋めた。もう固く勃ち上がってるそれを躊躇いもなく口に含む。
「あっ……吉野、さん……、フェイント過ぎ……」
 裏筋を丁寧に舐めて先の方を舌先を尖らせて刺激する。その舌使いに思わず吐息を漏らした掛川を、吉野は下から見上げてまた口に含む。
「吉野さん……そんな顔で見るなよ……」
 掛川は快感に顔を歪めながら、吉野の頭を愛おしそうにゆっくり撫でた。その手を吉野の口元に持っていく。
「挿れていい……?」
 自分のものから吉野の口を離すと、今度は指をその口内にゆっくりと這わせた。吉野もそれに応えて、指に舌を絡ませる。それだけなのに、どうしようもなく感じてしまう。
「うん……、もう……早……く……」
 指を口にしたまま、吉野は頷いた。掛川はもう一方の手でベッド脇にあるローションを手に取ると、吉野の後ろに塗りはじめた。
「んっ……、あ、あっ」
 指で慣らされ始めると、それだけでは足りなくなってきて、自ら腰を揺らしてしまう。
「も、いいから早く……」
「やっぱり堪え性がない」
 掛川は我慢が出来なくなって根を上げた吉野の足を持ち上げると、そのまま深く挿入した。はじめの痛みと圧迫感が終わると、突き上げるような快感がやって来る。
「は……あ、んっ、あ……、あ……っ」
 こうして身体を繋げると、何とも言えない一体感が沸き起こってくる。体の表面でお互いを感じるのと、中でドロドロに溶けそうになりながら感じるのとでは比べものにならない幸福感がある。今はそれだけが全てで、他には何もなくなってしまう。
「吉野さん……っ」
 掛川が唇を求めてくる。彼も同じように感じていて、堪らなくなってこんな風に縋り付いてくる。お互い舌を絡ませても、感じすぎて舌が痺れたようになっていて、上手く絡み合わなかった。
「あ……あ……っ、もう……」
 吉野は必死にシーツを掴んだ。
「……は……あ……、吉野さん、一緒にイって……」
 腰の動きが一層激しくなった。耳元で吐息混じりに囁かれる自分の名にゾクっとする。信じられない程突き上げられて、あまりの快感に頭を振ってよがった。
「ああっ……」
 一際大きな声を上げて、二人は絶頂を迎えた。余韻が引く程の快感に、二人でドロドロに溶けながら酔いしれた。



 最近、やっと二人でベッドで寝るのに慣れてきた。でもさすがに狭くて辛い。それでも一緒に寝てしまうのは、お互い少しでも一緒にいたいからだと、吉野は思っている。こうして体をくっつけていると、彼の体温が空気からも感じられて心地良かった。
「今度は阪神勝つと思うんだ」
「まあだ言ってんの? 吉野さん」
 やっぱり、あんな風に良い様にされてしまうのは、その時は良くても後が恥ずかしい。別に阪神ファンでもないのに勝ちを願わずにはいられない。
「なあ、明日仕事は?」
「泊まり」
「じゃあ、帰ってこないのか」
 吉野は小さく溜息を吐いた。それを見て掛川は優しく笑うと、そっと頭を撫でた。吉野は彼が笑ったときに出来る、眼の下に出来るしわが好きだった。これのせいで、自分より大人びた雰囲気が出ているような気がする。とても安心感を与える笑顔。


 こうしているといつまでもこのままで居たいと思うのに、いつか朝がやってきて、現実の中に戻される。
 時々、何で自分はこんな所にいるんだろうと思う。
 仕事に行っているとその現実に押しつぶされてしまいそうで、掛川と居る時間と、その現実とがあまりに違いすぎて、毎日振り子のように揺れている。
 あまりにその揺れが大きくて、自分は目眩を起こしているんじゃないかと思う。掛川はきっとその揺れに対して強く、上手く切り替えができていて、吉野のように翻弄されてはいないだろう。やはり同じ男だから、どうしても自分と比べてしまう。
 仕事なんて適当にこなしていけばいいじゃないか、と思うけれど、それが上手くできない。振り子のように揺れて、その揺れに悪酔いしている自分を掛川は労ってくれるけれど、その逆が無いのが悔しい。それに、揺れは大きくなる一方で、自分で何とかしなければ何も変わらず、ただ酔い続けるだけだ。
 そして吉野はふと、白石課長は揺れるのをやめてしまったんじゃないかと思った。



2002年公開
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