掠れた靴音

第一話


 慌てて、階段を駆け上る。
 コンクリートの階段は、直接足に響いてきて、固い。そのまま流れるように味気ない自動改札に定期を通し、今度は階段を駆け下りた。
 ……何とか間に合った。
 吉野はホッと胸をなで下ろし、向こうから入ってくる電車に目を遣る。
 その視線の先に、彼が居た。
 彼はここの駅員で、名札を見る限り「掛川」というらしかった。でも、吉野はその事しか彼について知らなかった。あと、いつも趣味の良い靴を履いている、という事しか。
 背が高くスラッとしていて、いまいちパッとしない駅員の制服も、よく似合っていた。自動改札のように味気ない通勤も、彼の姿を追うことで少しは紛れるような気がした。
 でも、自分は多くいる通勤客の一人に過ぎない。
 彼を見かけるようになって二ヶ月、奥手な吉野はただ彼の姿を目で追うことしか出来なかった。
 電車がホームに入ってくる。うんざりするような人の数だ。工場で流される製品のように、人々が電車になだれ込む。そして、自分も。
 吉野はこの瞬間がとにかく嫌だった。彼の姿が自分の視界から消えてしまう。
 そしてそれは、これから味気ない日常が始まる、という合図でもあるのだ。
 ふいに、電車のドアが閉まる瞬間、彼と目が合ったような気がした。でもそれは一瞬で、気が付いたときには電車は動き始めていた。
 電車の外の風景は、もう既に電線だらけの街並みに変わっていた。



 吉野は、都心にある本社から取引先へ営業周りをするのが日課だった。長い時間かけて会社に着いても一週間の半分は営業で外回りだ。時々うんざりもするが、自分が選んだ仕事だし、ずっと机にかじりついてデスクワークばかりというのもそれはそれでうんざりしそうなので、特に仕事に不満はなかった。……好きではなかったけれど。
 お陰で、靴は年に二足は履き潰していた。安物ばかり買っているというのもあるが、きっと自分の歩き方が悪いんだろうとも思う。
 そして、今履いている靴もそろそろガタが来そうな感じだった。
「吉野君、ちょっと」
 少し痩せ気味で白髪混じりの白石課長が、手招きして吉野を呼んだ。この課長はいい加減いい年だったが、人が良いせいか大して出世もせず、この卸売管理課の万年課長だった。部下に甘く、接待も下手なこの課長を吉野は好きだったが、同時に自分はこうなってはいけないだろうな、とも思うのだった。
「あの~、ここ、どうやるんだったっけ」
 どうやら白石課長は、パソコン相手に苦戦している様子だった。いい加減、この年になると物を覚えるのも大変だろうが、他の同期の社員は殆ど使いこなしているはずで、そこにも彼の不器用さが伺えた。でも、こうして気軽に部下に教えを請う白石課長は、部下から見れば気安い、いい上司だった。
「えっと、ここには出荷予定数を、ここには欠品を……テンキーで操作できますよ」
「ああ、そうか」
 不慣れな手つきでマウスを操作する姿は、いかにも情けなく、万年課長の見本のようだった。雇用数削減で、こんな雑用も社員がやらなくてはならなくなっていたが、何も課長がやることは無いだろう。吉野は大して仕事の出来る方ではなかったが、さすがにこの人よりは出来ると思うのだった。
「白石課長、すぐ俺に聞いてくるんだよなあ」
 自分のデスクに戻りながらブツクサ言っていると、向かいに座っている女の子がクスッと笑った。
「あら、吉野さんだったら気軽に教えてくれそうだからじゃないですか?」
「えっ……、そうかな」
 自分が白石課長を気軽な上司と思っているように、向こうも自分を気軽な部下だと思っているんだろうか。そう思うと、自分もあの課長と同類なんじゃないかと不安になる。
「いいじゃないですか、白石課長優しいし」
 優しいというよりは、ナメられてるって感じがしなくもないが。こんな若い女の子にタメ口きかれてるなんて、自分じゃ我慢できない。
「あ……うん、そうだね」
 今ひとつ納得できなかったが、吉野は適当な相槌を打って自分のパソコンのモニターに目をやった。そしてまた暫くしてから、「吉野君、ちょっと」と白石課長からお呼びが掛かるのだった。



 今朝は、電車の時間にも余裕で間に合った。いつも乗る7時50分の急行。
 でも今日は彼の姿はなかった。非番なのだ。
 毎日通っている駅だし、彼の姿ばかり追っているので、吉野は彼の仕事のスケジュールをすっかり覚えてしまっていた。一週間のうち早番は三日、遅番は二日、非番は水・土曜日。こんなのまで覚えてしまって、吉野は我ながら暇だなあと思った。
 そしてやはり、彼の姿が見えない水曜日はちょっと寂しかった。遅番の時は改札口の乗務室に居て姿をちょっと見ることが出来るが、全く会えないと判っていると寂しいものがある。水曜が来る度に、自分は彼の姿を見るのをいかに楽しみにしていたかということを思い知るのだった。……一度も言葉を交わしていないというのに。


 この日は営業で外回りだった。最近すっかり乗り慣れた地下鉄で、取引先へ向かう。都内は込み合ってるので社用車で行っても時間通りに着けるかどうか怪しいので、地下鉄が確実なのだ。
 乗っている間は暇なので、意味もなく携帯を弄ったりする。吉野は携帯電話があまり好きではなかったが、この仕事のお陰で手放せないようになってしまった。周りでは大して用もないのに携帯を弄っている人々が居て、自分もその一員なのかと思うとちょっと嫌だったが、最近はそんなことどうでも良くなってしまった。段々人はこうやって感覚が麻痺していくのかな、と思ったりした。


 よし、今日は奮発して新しい靴を買おう。
 今日は外回りから直帰なので、吉野はあまり立ち寄らないデパート街に繰り出した。
 最近はメンズ物ばかり置いてあるデパートの別館があるので、男一人でも割と気軽に出入りが出来る。
 ハッキリ言って吉野はあまりファッションに気を使う方ではなかった。どのブランドが良いとか、こういうデザインが流行っているとか全然疎いのだ。でも、今回はちゃんとこういうのが欲しい、という目標があった。
 そして、たくさんの靴が並べてあるシューズコーナーを通り過ぎ、周りの商品と一線を画すように設置されているブランドのショップに入った。
「何をお探しですか?」
 暫く一つの靴に見入っていると、女性の販売員が声を掛けてきた。吉野はこういうのが苦手で、デパートとかちゃんとした所で物を買うのが嫌だった。何を話して良いか困るのだ。営業職としては失格だろう。吉野は「いや、ちょっと」と言って、女性販売員をやり過ごした。
 吉野がずっと見入っていたのは黒い革靴で、良くあるデザインのように見えて、ちょっとしたカーブや縫い目、靴紐や通気孔の位置など細かいディティールが非常に凝っている代物だった。特に縫い目が丁寧で、それだけで一つの模様のようになっていた。足の甲の部分が低く幅広で、今時っぽいデザインであると共に履きやすさも考えられているようだった。
 そう、それはあの駅員の彼が以前履いていた靴だった。他にもいくつか持っていたが、あの靴は特に良いな、と思っていたのだ。
 同じ物を買うのはかなりどうかと思われたが、見たり試着したりしているうちにどんどん欲しくなってしまった。値段もなかなかで、吉野はカードを持ってきたかどうか確認したりした。そして、せめて色違いを、と思い焦茶色のを買ったのだった。



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