掠れた靴音

第二話


 ちょっと、足が痛かった。早速靴擦れができてしまったのだ。
 家から駅までの道のりだけでもうこんなになってしまっては、会社に辿り着くまで持つかどうか怪しかった。でも、今まで履いたどの革靴もことごとく酷い靴擦れになっていたので、今回はまだマシな方かもしれない。やはり、歩き方が悪いんだろう。
 歩いたときに鳴る靴音がいつもより軽く、一段高く響いているような気がした。
 今日は割と早く駅に着いて、いつも乗る急行が来るまでまだ時間があった。
 この駅は急行が止まるぐらいで特に何の特徴もない私鉄沿線だが、ラッシュ時はさすがに通勤客でごった返している。吉野は立っているのが辛かったのでベンチに腰掛け、足をさすったりしていた。これで今日、外回りの営業があったら辛い。予定では入っていないはずだが、何があるか分からないし、やはり替えの靴も持ってくるべきだったかな……と少し後悔した。
 暫くベンチでボーっとしていたら、ふと彼の姿が目に入った。今日は確か早番ではないはず……。おかしいな、と思いながら見ていると、今度は彼と目があった。なんとこちらを見て、微笑みかけていた。
「おはようございます」
 彼はそう言うと、軽くお辞儀をした。吉野は今の状況を飲み込めずに、ただ狼狽えるばかりで、やっとの事で、「あ、おはようございます」と口に出して言った。何か不味いことでもしたかな、と勝手に心配したりした。
「いつも、この時間に乗ってらっしゃいますね。どちらまでですか?」
 いつも……ってことは、吉野が彼を見ていたように、彼も吉野を見かけていたのだろうか。それよりも、毎日彼の姿ばかり目で追っていたことが知れてしまったのかと、さらに狼狽えた。吉野が何とか会社の最寄り駅を言うと、
「ああ、一時間近くかかりますね…乗り換えもありますし、大変ですね」
「ええ、まあ…。でも、慣れました」
 二ヶ月間目で追い続けていたというのに、彼の声を初めて聞いた。思ったよりも高い声だったが、落ち着いていた。いつも勤務中は無表情なのに、こんなににこやかに話をする人だとは思わなかった。
「いいですね、その靴」
「え?」
 彼は、吉野の靴を一瞥すると、にこやかにそう言った。
 吉野はギクリとした。同じ靴を買ったのがバレたかと思って、内心焦った。
「あ、でも……」
 吉野はそう言いながら、視線を彼の靴に落とした。やっぱり、同じだ。
「見た目は似ていますけどね、私のは偽物なんですよ」
 そう言って彼はにこやかに自分の靴を示して見せた。確かに微妙に縫い目の辺りや靴紐の素材が違っていた。でもパッと見た感じは殆ど変わらない。
「駅員の安月給じゃ、そんな良いブランドの靴は買えませんからね」
「え……あ、あの」
 吉野が何か言いかけようとすると、電車が入ってくるアナウンスが構内に鳴り響いた。いつも乗っている例の急行。
「あ、すいません、勤務中は私語厳禁なのに……それじゃ、いってらっしゃい」
 彼はそう言うと、ホームの中ほどの方へ行ってしまった。人混みの中に埋もれてもう姿は見えなかった。
 ホームに電車が入ってくる。
 吉野はドアが開いてからも気が抜けたようにボーっとベンチに腰掛けていたが、「発車します」というアナウンスで我に返り、慌てて乗り込んだ。無理矢理入ったので、先に入っていた中年サラリーマンに体当たりする形になってしまい、物凄く嫌そうな顔をされたが、吉野はそれすら目に入っていなかった。
 あんな風に、にこやかに話をする人だと思わなかった。
 眼を細めて笑ったとき、目の下に出来るしわが魅力的だった。
 真面目で実直そうな感じだと思っていたが、意外と気安く話が出来るタイプなのかもしれない。
 電車の中でもみくちゃにされながら、吉野はさっきの会話を思い出してはそんなことばかり考えていた。自分はただ狼狽えていただけで殆ど何も話をしなかったというのに。
 そして、足の靴擦れのことは、もう記憶の彼方に行ってしまっていた。



 それから彼とは、朝出会うたびに普通に話をするような仲になっていた。もちろん、殆ど時間もないので挨拶程度しかできなかったが、吉野はそれだけでも随分な進歩だと思うのだった。
「吉野さんは、営業なんですか」
「ええ……。営業志望ではなかったんですが、職種なんて選べませんでしたからね」
「俺……あ、私も、はじめ総合職にしようと思っていたんですが、直接電車乗る仕事したかったんで、一般職にしたんです。総合職にしていたら、きっと営業だったでしょうね」
「駅員さんにも総合職と一般職があるんですか」
「総合職は本社の方なんですよ。鉄道業務は一般職になります」
 時間のあるときには、こんな風に他愛のない会話をするようになっていた。お陰で、吉野はいつも以上に早い時間に来るようになり、この曜日は決して遅刻はしないだろうな、と思うのだった。
 そして、電車が来たときに掛川が「いってらしゃい」と言ってくれるのが、何とも言えず嬉しかった。
「吉野君、ちょっと」
 白石課長から、いつもの呼び出しがかかった。またか、と思いながら吉野は課長のデスクに向かう。でも今日はパソコンの用事ではなかったようだ。
「ここのM物流という所、明日君に行ってもらいたいんだが」
「ええ、構いませんが……」
 吉野がそう言うと、白石課長は色々と資料用の書類を出してきた。普通はパソコンに入れてデータ化しておくものだが、このアナログな課長は全て紙媒体に頼っているようだった。そして、その中に「秘」と判の押してある茶封筒があった。
「あの、課長これ……」
「この取引先の業務は全て君に引き継いでもらいたいんだ。昔からうちの社の製品を取り扱ってくれているところだから、くれぐれも失礼のないようにな」
「は、はい」
 普段のんびりとした話し方しかしないこの課長が、珍しく厳しい口調になっていた。それだけ大事な取引先、ということなのだろう。吉野はそろそろ自分にも大事な業務が回ってくるようになったか、とその資料を見ながら思うのだった。



 寝坊した。
 思いっきり。
 目が覚めたのは社の女の子からの「吉野さん~、どーしたんですかー」という電話だった。電話の着信音さえ聞こえなかったらしく、留守電になっていた。
「ああ~~!!! マジかよ、嘘だろォー!!」
 吉野は何処に怒りをぶつけて良いか判らず、とりあえず目覚まし時計をベッドに投げつけた。
 そして顔も洗わず服を着て、ボサボサ頭のまま家を出た。
 吉野は昨夜、ちゃんと課長からもらった資料に目を通し、しっかりと準備をしていた。でもまあ、そんな難しいことをやる訳でもないので余裕だろうと、近所の友人に飲みに誘われ出掛けてしまったのだった。帰ってきたのは朝の3時で、目覚ましをかけ忘れてそのまま寝てしまったらしい。どう考えても自分が悪い。
 吉野は電車の中で、恐る恐る白石課長に電話した。社には居ないらしく、外回りに出ているらしい。今度は課長の携帯にかけてみた。
「あ、吉野君か。そのまま社には出ないであちらさんに向かってくれ」
「は、はい、す、すいません…」
 吉野は電話をしながらペコペコと頭を下げた。今まで、電話しながら頭を下げている人を変だなあと思って見ていたが、初めてその気持ちが分かった。
「あちらさんにはわたしの方からもう連絡入れておいたから。まあ、心配しないで」
 これ程課長の言葉が身に染みたことはなかった。普通だったら頭ごなしに怒鳴りつけるだろう。吉野は心からこの人が上司で良かった、と思ったのだった。


「あ、吉野さんですか、どうぞどうぞ」
 そう言って取引先の担当の、間島という恰幅の良さそうな中年の社員に席をすすめられ、吉野は腰を下ろした。女子社員が色の薄いお茶を持ってきて、吉野はお礼を言うとそれをすすった。何だか殆どお湯のようだった。
「いやあ、白石さんらしいですなあ」
 そう言ってガハハと笑うと間島はお茶をすすった。
「え……?」
「白石さん、君に業務の引き継ぎするの忘れていたんだって? 前うちに来たときに担当が変わるって言っていたのに、一ヶ月も前だったから忘れてましたよ~、なんて言ってましたよ」
 明るく笑っているのを見ると、大して気にもしていない様子だった。それにホッとするのと同時に、何故そんな事になっているのか、訳が分からなかった。
「えっと……それで、この商品の事なんだがね」
 そのまま商談に入り、吉野は訳が分からないまま話を進めていったのだった。

「いやあ、白石さんも色々あった人だからねえ」
 最後、一通り話を終えた後、間島がしみじみと言った。
「え……、何か、有ったんですか?」
「あれ? 知らないのかい」
 間島は意外そうな顔をすると、少し声のトーンを落とした。
「あの人、君んとこの親会社に勤めていたんだよ。バリバリのエリートでねぇ。でもほら、あの頃ってバブル全盛期だろう? 残業、残業の嵐でさ。過労で倒れたんだよ」
 そんな話、初めて聞いた。あの白石課長がエリート社員? しかもうちの親会社って……一流の大手企業じゃないか。
「その上、労災下りなくてねえ。勤務中に倒れた訳じゃなかったみたいだからね。大企業って体裁気にするし。でも、それで結局一家離散。復帰後も何か大ヘマやらかしたみたいで、回り回って君んとこに来たみたいだね。あの人も苦労してるよ、本当」
 こんなことペラペラ喋ってしまっていいんだろうか……と吉野は心配しつつ、初めて聞いた話にただただ面食らうばかりだった。
 あの、吉野にパソコンを教わるときの白石課長の情けない顔が思い浮かんだ。とてもそんな過去を背負っているような人には思えなかった。



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