陰影

第一話


 オレの、この街に対する印象は「土色」だった。
 地面も、建物も、人々も、家畜も、空気も、土色だった。それでいて溶け込んでいるわけではなく、それぞれが激しく自己を主張しているのだ。それを喧騒と言うものかもしれない。本当に、騒がしい。

 カルカッタから汽車に揺られること七、八時間。車内にいたというのに土埃だらけになった頭をクシャクシャと掻きむしりながら、オレは駅を後にした。
 しばらく歩いてから、二人乗りの荷台が付いたリクシャーという自転車を呼び止め、適当に値段交渉をして乗り込む。リクシャーを漕いでいるオヤジは、オレなんかよりずっと小さく痩せていて、それと同じようにリクシャー自体もボロくてかなり心配だったが、メチャクチャに込んでいる道を上手くかき分けながら、思っていたよりもずっと力強く進んでいった。この白髪混じりの痩せ細った体の何処にそんな力が有るんだろうと、オレはただただ感心した。
 しかし、感心したのも束の間、行き先のゴードーリヤージャンクションに着き、料金を払おうとしたら言い値の倍以上をふっかけてきたのだった。リクシャーを漕いだ後でゼイゼイ言いながら、オヤジは盛んに「これじゃ足りない」と言ってくる。さっきの交渉は何だったんだろう、と思いながら、再び交渉をはじめる。でも結局、英語を話すのが面倒くさくなったので、言い値よりちょっと多めに払い、荷物を持ってさっさと立ち去ることにした。でも後で聞いたら、さっきの言い値もすでに相場の倍だったらしい。まあ、よくあることだ。


 ヴァラナシは、この国を旅しようと思う人ならとりあえず行っとけ、と言う土地だ。たくさんの人々と、巡礼者と、死者がこの聖地にあるガンガー(ガンジス河)を目指す。しかし、オレのような外国人旅行者には聖地と言われてもいまいちピンとこない。まあでも観光なんてそんなもんだ。
 オレは学生時代最後の思い出として、この国へ卒業旅行というか放浪というかそんな感じでやって来た。英語もダメだし、海外旅行なんて家族で行ったパック旅行ぐらいしか経験のないオレとしては結構冒険のつもりだったが、カルカッタに到着して暫くしてからそんな日本人の学生はザラに居ると言うことを知り、少しショックを受けたのだった。
 そしてオレのように、大した心構えもせずにやって来て、散々な目に遭ったという旅行者もちらほら見かけた。オレは幸い、まだ大した目には遭わず穏便にここまで来れた。運がいいかな? と我ながら思ったりする。

 ゴードーリヤージャンクションは、駅前なんかとは比べものにならないほどの人と車と牛とその他いろんなものでごった返していた。色とりどりのサリーを身に纏った女達も、ごちゃっとしていて何が売ってるのか判らない派手な店も、捲き上がる土埃に溶け込み、土色の鮮やかな世界を作っていた。やたらめったら鳴らされるクラクションの音にはまだ慣れなかったが、道路の真ん中を闊歩する牛にはようやく慣れた。慣れてしまえば何だって良いんだ。慣れてさえしまえば。


 ガンガーのガートと呼ばれる階段状の岸辺に着いたのは、日がもう暮れようとしている時間だった。
 思ったより宿捜しが難航し、やっと荷物を解くことができた時は既に日が大分傾いていた。シングルの空部屋がなかなか見つからず、結局安宿街の外れのちょっと小汚いホテルにしたのだった。
 大抵貧乏旅行者はドミトリーに泊まるものだが、前にドミトリーに泊まったところ、毎晩のようにジョイントパーティーをやられたのでちょっと懲りたのだ。葉っぱを吸う分にはオレも別に好きだから何ら問題はないのだが、キマってるときは何となく一人になりたいタチだったので、ああやって大勢居るのは正直嫌だった。だからわざわざシングルの部屋を捜すことにしたのだった。
 その宿で荷物を下ろし、ロビーで一服していたら、向かいに泊まっていたドイツ人だとか言う男にちょっと良さげな葉っぱを分けてもらったので、それを燻らせながらガンガーの夕日でも見るか、とオレは宿を後にした。



 ガンガーの対岸の『不浄の地』に日が沈もうとしている。赤い空と、下の土色の世界が滲んだように溶け合おうとしていた。その境目が、黒く焦げたようになり、更に強く光を放つのだった。オレはその光景を、ただボーっと見つめていた。夕日って滲むものだったのか、と一人感心したりした。
「よう、ジャパーニー」
 そんなオレの気分を引き裂くように、男の声が聞こえてきた。振り返ると、オレと同じ日本人らしき男が立っていた。いや、厳密に言うとオレと同じではない。そいつはこの世界から妙に浮いていた。
「……お前だって日本人だろ?」
 オレはいい気分だったのを壊されたので、ちょっと不機嫌な返事をした。
「こう言われて振り返るのは日本人だけだろ」
 そう言うとそいつは、少し小馬鹿にしたようにフッと鼻を鳴らした。
 この街にいる旅行者は、大抵Tシャツに短パンか、もしくは勘違い気味に民族衣装を纏っているヒッピーかどちらかの格好をしているものだが、そいつは、この街にいるにしては妙に格好がこざっぱりとしていた。それに何と言っても、清潔感のある雰囲気を身に纏っているのがこの街から浮いている原因だろう。何でこいつ、こんな所にいるんだろう、とオレは普通に考え込んだ。
「チャイ、飲むか?」
 そんなオレには構わず、奴は隣に座り込んできた。服が汚れるのは構わないらしい。
「あ……ああ」
 オレが生返事をすると、奴はチャイ屋のオヤジに声を掛け、暫くすると手に二つチャイを持って戻ってきた。そのうちの一つを、オレに手渡す。
「いくらだ?」
 と、オレが財布を出そうとすると、
「いいよ、やるよ」
 と奴が素っ気なく言った。チャイなんてたかが2ルピー程度なんだが、それだけでオレはさっきまでの不機嫌を何処かにやってしまった。オレって単純かな、やっぱ。
 チャイは、やたら甘いのに後味がサッパリしていて、このクソ暑い国にいるというのに、こんな熱い飲み物をみんな毎日何杯と無く飲むのだ。オレも、この国に来てから水と同じくらいやたら飲んでる気がする。
 奴からもらったチャイも凄く甘くて、素焼きの陶器の味と混ざって土の味がした。オレの隣で奴は、猫舌なのかまだ飲めずにふーっと息を吹きかけ冷ましている。飲み終わると、オレはチャイの入っていた陶器を地面に投げつけた。バリンと割れる音が心地良い。
「ここでは、そこに割らない方が良い。裸足で歩いている人も居るからな」
 そう言うと奴は足でオレの割ったチャイの陶器を河に捨てはじめた。オレも慌ててそれに続く。そのうち奴も飲み終わったのか、チャイの陶器を河にヒュッと投げつけた。プカプカと流れる陶器。そのずっと奥の方で河イルカらしき影が横切った。でもオレは、やっぱチャイの陶器は飲み終わった後割らないと、どうもスッキリしないなあと思ったりした。
「あんた、ベナレス大学の学生か何かか?」
「何でそう思うんだ?」
 だって旅行者には見えないし、ここで仕事をしているようにも見えない。しかし奴は相変わらずの素っ気なさで、オレの質問を質問で返してきた。
「……別に」
 答える気が無さそうだと判断したオレは、それ以上詮索しなかった。まあ、その街で浮いていようといまいとそいつの自由だし。
 すると奴は、懐から何やらパイプのようなモノを取り出し、マッチで火を付けそれを燻らせはじめた。上手そうに煙を吸い込み、静かに吐き出す。パイプと言うよりは、短い煙管のような形で、大分使い込んでいる雰囲気があり、よく見るとなかなか意匠を凝らした彫り物がしてあった。
「お前もやるか?」
 そう言うと奴はオレにそのパイプを差し出してきた。夕日が反射して顔はよく見えなかったが、少し目が潤んでいるような気がした。段々辺りの影が濃くなり、その影に奴の黒い髮が溶け込んでいた。
「何、これ?」
「チャラス」
 もう一度、奴はパイプの煙を吸い込むと、再びオレに差し出した。葉っぱは散々やってきたオレだったが、チャラスは初めてだった。ちょっと心配だったが、まあ原料は同じなんだし、と思い切ってそれに口を付け、吸い込んだ。一度、息を止めてから煙を肺に押し込む。煙は、今までやってた葉っぱとは比べものにならないくらい濃厚で、オレは咽せ返りそうになるのを必死にこらえた。
「何だ、チャラスは初めてか」
 思わずしかめたオレの顔を見て、奴はまた小馬鹿にしたようにフッと笑った。
「ガンジャはさっきまでやってたんだけど」
「どっちも似たようなもんだろ」
 そうかなあ……などと考え込んでいるうちに、オレはふわふわといい気分になってきた。奴はそんなオレの手からパイプを取ると、自分もまた煙を吸い込んだ。オレ達は交代でパイプを銜え、煙を吐き出した。
「あ……やべえかも……」
 ふわふわといい気分、を越えると、辺りの風景が滲んだように見えてきた。いや、これは二重に見えているのか? 日が暮れて空は朱色から群青、そして闇へとグラデーションがかかり、それが頭上いっぱいに広がっていた。朱色の所はどんどん遠ざかっていくように見え、逆に闇の部分は段々自分にのし掛かってくるような気がした。
「オレさ、キマってくるとさ、世界中に自分一人だけになったような気分になるんだよな」
 だから、その時は周りで誰かが話しかけてきたり騒いでいたりしてると鬱陶しいのだ。キマってくるとやたらハイテンションになる奴が多いから尚更だ。
「そうか、オレと逆だな」
 大分闇が差し掛かり、奴の顔は半分ほど影に隠れていた。そういえば、こいつは隣にいても別に鬱陶しくはないな。口数が少ないからか。
「オレは……世界中で自分だけいなくなったような気分になる」



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