陰影

第二話


「いい加減暗くなってきたな……お前、自分の宿分かるか」
「え、あ? 分かる……けど……」
 ヤバイ、舌が回ってねえ。そうだ、日が暮れて暗くなったら危ねえから帰ってこいって、宿のオヤジに言われてたっけ。外国人旅行者が夜出歩いてたら、殺されても文句は言えねえとか何とか。
「ここに、ホテルのカードが……」
 暗くなったせいか、ラリってるせいか、オレは奴の顔がよく見えなくなっていた。そしてオレはやっとの事で、ズボンの尻ポケに入っているホテルのカードを取り出した。奴もちょっとキマってるのか、楽しそうにそのカードを口に銜えた。奴がどんな表情をしてるのか気になったが、どう目を凝らしても見えないので、ぐっと顔を近付けて覗き込んだ。そんな挙動不審なオレを見て奴はまた楽しそうに笑って、オレの耳に囁いた。
「そんなナリじゃあ、一人で帰れないだろ……オレが送ってってやるよ」
 こいつの声は、妙に心地が良い。オレは遠のいてく意識の中で何となく思った。



 気怠い暑さの中で、オレは目を覚ました。何か寝汗でびっしょりだし、昨日のアレが残ってるのか、少し頭がクラクラする……。でも問題は、そんなことじゃなかった。
「お、おい、何でお前、こんなとこに……」
 オレの横で気持ちよさそうに寝息を立てていたのは、昨日の夕方ガートで会った、あいつだった。
 何だよ、あのままラリってここで寝ちまったのか? つうかオレ、昨日どうやってこの宿まで辿り着いたか覚えてねえ……。何かこれってヤバイよな。こいつのことは辛うじて覚えているが、どう記憶を絞り出そうとしても、出てくるのは朱色と闇が混じりはじめたあの光景だけだった。そして濃くなった影に溶け込んだこいつの黒い髪。
 とにかくここでパニクっててもしょうがないし、と起きあがったオレは、もう一度愕然とした。服一枚着ていなかったのだ。昨夜暑くて服脱いで寝たのかなあ……とも思ったが、だからって下着ぐらいは着けるだろう。第一隣でこいつ寝てるんだし……と奴に目を遣ったオレは、ただもう呆然とするしかなかった。
「ん……あ……起きてたのか……」
 そんなオレの視線に気付いたのか、眠そうに目を擦りながら、奴が起きあがってきた。そう、奴も裸で……そして明らかに、ある行為のあとがハッキリと残っていたのだ。
「シャワー、使うぜ」
 呆然としているオレを尻目に、奴は悠然とシャワーのある部屋に入っていった。こんな安宿なので温水ではなく水シャワーだ。バチャバチャと水の滴る音が聞きながら、オレは乾ききってバリバリになってる自分の下半身に向かって、何でだよ、と呟いた。


 それから奴とは、何事もなかったように……本当に、何もなかったように朝飯を一緒に食って、ちょっと葉っぱを吹かしながら、バザールの良さげな店を教えてもらったり、カードというヨーグルトのおいしい店に連れていってもらったりして、普通にヴァラナシの街を案内してもらった。やっぱ今朝のことはオレの思い違いだったのかもしれない……。
 この前まで居たカルカッタは妙に近代的で、ちょっと物足りなさを感じていたオレだったが、このヴァラナシは期待を裏切らない古い街並みで、軒を連ねたバザールも、人間よりもデカイ面している牛も、あやしい日本語で声をかけてくる売人も、何もかもが新鮮だった。
 そして奴は随分英語が堪能な上、現地のヒンドゥー語もそこそこいけるようで、無理に吹っかけてこようとする店主や売人を軽くあしらってるいるのがオレには妙に眩しくて、羨ましかった。……英語なんか喋れなそうな面してんのに。
 オレは、ずっとスニーカーってのも何だし暑苦しいので、バザールで革製のサンダルを買い、靴の修理屋のオヤジに頼んで裏地にタイヤのゴムを付けて補強してもらった。こうすると良い、と教えてくれたのも奴だ。自分は小綺麗な革靴なんて履いているのに。服装もラフではあったが、ズボンなんか特に織り柄がついてたりして、ちょっとしたブランド物のようだった。汚れるのは気にしていないようだが……こんな所にいてお洒落なんかしててもしょうがないだろうと、オレは思うのだが。
 でもこんなに浮いているのに、こいつは特に目立ったりはしなかった。何て言うか、存在が希薄だった。


 ヴァラナシは、物価が安い。オレが泊まっている宿もかなり安かったが、今食ってる昼飯も相当安い。勿論、如何にも安そうな外見の店なのだが。オレはカレーや定食のターリーはもう飽きてきたので、チョーメンとかいうケチャップ味の太いヤキソバみたいなのを食った。ちょっと脂っこい。その横で、奴は小食なのかその辺のバザールで買ってきたバナナを頬張ってた。
「お前、食わなくて良いのか、メシ」
「バナナで十分……お前も食うか?」
 この国のバナナは、小振りだが実がすごく詰まってて皮が薄い。差し出されたバナナは味が濃厚で甘酸っぱくて、今まで食べたどのバナナより美味かった。
「オレが今まで食ってたバナナって……バナナじゃなかったんだな」
オレがポツリと言うと、奴は珍しくプッと吹き出して
「お前、面白いこと言うな」
 と、さも可笑しそうに言い、その後ちょっと目を伏せた。
 食事を終えたオレ達はチャイを頼み、一服した。この国では何を食ってても、一緒に飲むのはチャイなのだ。奴は相変わらず猫舌のようで、冷ましながらチビチビと飲んでいる。そして、思い出したように口を開いた。
「でも……どんなに味気なくてもバナナはバナナさ。だって、自分が物凄く出来が悪くて、お前人間じゃなかったんだなって言われたら……嫌だろう?」
 面白いことを言うのはこいつの方だろうと思ったが、オレは、それもそうだな、と相槌を打った。そして、こいつにとってオレとバナナは大して変わらないんだろうと何となく思った。


 昼食を終えたオレ達は、昨日オレ達が出会ったガートに再び訪れた。一番大きく賑やかなガートより下流の小さなガートだ。
 そこには、殆ど裸に近いような格好で顔中白髭に覆われたサドゥーという苦行者が、何かパイプを吹かしながら座っていた。その老人に奴が何やら話しかけている。ハッキリ言っておかしな2ショットだ。暫くしてこの老人は奴の言葉に一度頷き、ついてこい、という仕草をした。この辺にはこういうサドゥーという連中が本当にたくさん居て、観光客向けの偽物も多く怪しいことこの上ないが、オレはとりあえずこの人は本物だろう、と思うことにした。

 その老人に連れられて、賑やかなバザールを抜けどんどん細い路地に入っていった。どの道も入り組んでいて非常に狭い。
 そのうち旅行者が全く居ない、民家ばかりの通りに出た。勿論ここの路地も狭く入り組んでいるが、今までとは全く雰囲気が変わっていた。何て言うか、違う世界に迷い込んだようだった。人影もまばらで、時々ここの住人らしき人がオレ達を不審な目で見ていた。勿論、喜捨を求める乞食達の姿もない。こんなに静かなこの国を見たのは初めてだった。
 土色の壁のひっそりとした街並みの中で、オレは自分が酷く浮いているような、ここに居てはいけない人間のような気がしてきた。ここにはオレのような暢気な観光客が踏み入れてはいけない、ここの人たちの生活があるような感じがした。逆に、今まで訪れたところはまるで生活感というものが感じられなかったのかもしれない。そして、老人が案内した先は、とても小さなヒンドゥー寺院だった。



 ここも、土色の世界だった。
 寺院の土色の壁には、所々崩れかかった彫刻が敷き詰められていた。神々や動物たち、そして生々しい男女の交わりをあらわしたミトゥナ像など、雑多に及んでいる。そしてそのどれもが朽ち果て崩れ落ちようとせんばかりだった。オレはこんな遺跡のような寺院を見るのは初めてだったので、一人感心しながら見入っていた。すると、ここを案内してくれた老人は、奴に一言二言話すと、すぐ何処かに去って行ってしまった。
「おい、いいのかよ。行っちゃったぜ」
「……用事があるんだそうだ」
 あんなトリップすることしかやることが無さそうなサドゥーに用事なんてあるのか? これって偏見かな?
「あの爺さん、知り合いか?」
「この前、あの爺さんにあのチャラスを分けてもらったんだ。メシ奢った御礼に」
 成る程。だからモノが良かったのか。
「今日も奢ったのか? メシ」
「新しいパイプをプレゼントしたんだ。爺さんの、ヤニで中が詰まってたみたいだったから」
 にしても、あんな爺さんと仲良くしてるなんて、やっぱこいつ、変だ。
「それよりも、いいだろう、ここ。静かで、何にもなくて」
 そう言うと奴は、寺院の崩れかけた階段に座り込んだ。オレはその一段上に座る。目の前をリスが通っていった。いや、尻尾のでかいネズミかもしれない。周りは木々に囲まれていて……オレは小さい頃欲しかった、秘密基地を思い出した。こういう誰も知らない、外界から遮断されたような空間が欲しかった。ここは奴の『秘密基地』なんだろうか。
 何気なく奥に入ってみると、何かの像が祀られていて、供物とマリーゴールドの花が添えてあった。天井は崩れて穴が空いていて、空がよく見えた。こんな廃れた寺院にも参拝する人はいるようだった。
「ここ、よく来るのか?」
「……」
 こいつは、気乗りしない限りあまり質問には答えない。オレが何か訊いても、適当にはぐらかされるか話題を変えられるか、こういう風に黙ってしまうか、どれかだ。オレの隣に立って、祀られた像をじっと見つめていた。
 添えられたマリーゴールドの花は殆ど枯れていて、辺りに花びらをまき散らしていた。天井に穴が空いているせいか、その真下の床は酷く朽ちていて、土埃と混じったマリーゴールドの花びらが汚くへばりついている。ちょうどその場所に奴が立っていた。オレはその時、どうしてこいつの存在が希薄に感じられるのか、少し判ったような気がした。
「なあ」
 オレが声を掛けると、ゆっくりと奴がオレの方に向いた。その目は、いつか見たときのように少し潤んでいるような感じで、虚ろな印象を与えた。
 そしてオレは一歩前に出ると、奴の唇に自分の唇をそっと重ねた。



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