理由

第一話


 桜が、雨に打たれて下を向いている。
 昨日は綺麗に咲いていたのに勿体ないな、などと思いながら僕は大学の坂を登った。広い大学で、校舎が十棟以上ある。今日で大学に来るのは三回目なのに、いまだに校舎の位置が掴めず、また迷ってしまった。

 参ったなあ……。5号館ってどこだったっけ?
 8号館と書かれた校舎の前の道は、雨だというのに、新入生を狙ってサークルの勧誘をしている学生でごった返していた。僕はその中の一つの集団に適当に目を付けて、声をかけた。
「あの、5号館ってどこですか?」
 その声に振り返ったのは、ジャージを着ていかにも体育会系という感じの背の高い男だった。
「何だ? 君、新入生?」
「え……?」
「サークルとか入らない? どうよ、うちのは? サッカーサークルなんだけどさ」
 僕の返事を待たずに、その男は半ば強引に腕を引いてきた。
「部活と違って、サークルだから気軽に出来るしさ、運動場もちゃんと借りてるから本格的に練習できるぜ」
「あ、あの……」
「そんな生っちょろい体してっと、運動でもして少し鍛えねーと。サッカーは嫌いか?」
「いいえ、好きですけど……」
 強引な勧誘に、ほとんど為す術もなくしていると、誰かが助け船を出してくれた。
「おい、そいつ、5号館はどこだって聞いてきたんじゃねーの?」
 僕は、助かった、とばかりにその声の主を見た。
 その青年はバンドTシャツにジーンズというよくある格好だったが、今時っぽい明るめの髮の色と日に焼けた肌が健康的な印象を与えた。僕は、Tシャツの柄がちょっと変わっているのが気になった。
「5号館はあっち、二つ目の茶色い建物だよ」
 彼はそう言うと顎をしゃくって指し示した。
「あ、ありがとう、それじゃ……」
 それでも強引に勧誘してこようとするその場の空気に居たたまれなくなり、僕はペコッとお辞儀をすると慌てて言われた方向に駆けだした。


 僕はこの春、一浪してこの大学に入った。実はと言うと、希望の国立に落ちてしまい、仕方無しにこの私立の大学に決めたのだった。
 暗い浪人時代を早く終わらせたかったというのもあるし、二浪はさすがに親が許さなかったというのもある。周りの学生もなんだかみんな軽そうだし、しかも僕は一浪しているから、同級生もほとんど年下に違いない。
 こんなの誰も言わなければ気にしない、とわかっていても、僕はそういう小さなことにこだわるやつだから、どうしてもそんな事を考えてしまう。暫く経って慣れてしまえば、そんなこと気にならなくなると思いたいのだけれど。


 今日はガイダンスだけだったので、いつもより早く終わった。僕は自分の寮の方向へのんびり歩いて行く。
 さっきまで降っていた雨は上がり、下を向いた桜から雨粒が滴っていた。まだ授業中なので人通りは少なく、行きのときの喧噪が嘘のようだ。春の陽気が心地よく、桜から落ちる雨粒を顔に受けながら僕は上を向いて歩いていた。
 すると、僕の少し前を、どこかで見たことがあるTシャツを着た青年が歩いていた。横顔をそっと覗き込むと、あの、強引な勧誘から助け船を出してくれた青年だった。

 僕は、声をかけようかどうか迷った。あの時のお礼を言いたいような、でも今さら、という気もするし、第一自分のことなど覚えていないような気がする。僕も、彼があのバンドのTシャツを着ていなかったらここまで確信できなかっただろう。
 僕はそっと彼の横顔を見ながら少し後ろを歩き、どうしようか思案しているうちに寮にまで着いてしまった。
 大学の寮はいくつか有るが、僕が住んでいる寮はその中でも一番古く、一番大きなもので大学からも一番近かった。勿論住んでいる学生も多い。なんと言っても家賃が安いのだ。
 彼もここの寮生なのだろうか。
 前を歩く彼の後ろ姿を見つめながら、そんなことを考えていると、自分の部屋の前にまで来てしまった。僕は部屋の鍵を外しドアノブに手をかけた。
「あ。」
 横を見ると、自分と同じ仕草をしているあの青年が、こっちを見ていた。


「お前、5号館には辿り着けたか?」
 暫く呆けていた僕達だったが、青年の方が先に口を開いた。僕は、予想外に彼が自分のことを覚えていたのにビックリした。
「あ、ああ、ちゃんと着いたよ。ありがとう」
「そっか、そりゃよかった。この大学、アホみたいに広いからな」
「どこに何があるか覚えるのが大変そうだな」
「ははは、どうせ使うのはごく一部だよ。多分、卒業まで一度も行かない所なんてたくさんあるぞ」
 実際、僕はどこからどこまでがこの大学なのか、いまいち把握していなかった。ここはいわば学生の街みたいな感じで、この寮も大学の敷地内なのか外なのかよくわからなかった。
「でも、隣同士だったとはな。前そこ六年生が居たんだよ」
「六年て……院生?」
「いや、学部で。経済学部だったかな?」
「す、凄いな……」
 こんな私立の大学にも留年生がいるんだな。僕は一体どれだけの授業料を払ったのか気になった。
「じゃ、お隣さん、よろしくな。俺、伊能ってんだ。工学部の二年」
 彼はそう言って手を出してきた。こんな風に人と握手をするなんて初めてだ。ちょっと戸惑ったが、彼の屈託のない笑顔を見てそんな不安は何処かへやってしまった。
「北原です。国史科の一年です」
 こんな感じで、僕の受難の大学生活が始まったのだった。



 施設がかなり古く至る所にガタが来ていたが、それ程規則には厳しくなく、僕はこの寮に割とすんなり馴染んでしまった。出される食事の味はイマイチだったけど。そして部屋が隣同士だったこともあり、暫く経つと僕と伊能はすっかり打ち解けていた。
 伊能の部屋にはビデオデッキが無いようで、映画のビデオを借りては僕の部屋に押し掛けて来るようになった。
 今日もカンフーアクションの映画を持ってきていて、僕に断りもせずビデオデッキをセットし始める。まあ、僕も別に構わないので勝手にやらせている。
 そんなことより気になったのは、今日、伊能はどこか見覚えのあるTシャツを着ていた。そうだ、初めて彼と会ったときのだ。
「そのTシャツ……」
「ん? 北原、これ知ってんの?」
 ビデオをセットして振り向いた伊能は、自分のTシャツを引っ張って示した。
「ベルベッツだろ? &nicoのバナナのヤツじゃないんだな」
「お、よく知ってんな。俺あんまり&nicoアルバムって好きじゃないんだ」
 初めて見たときも珍しいと思っていたけれど、カンフー映画好きな彼がVELVET UNDERGROUNDなんて聴いているのが更に不思議だ。サモ・ハン・キンポーを本気でカッコイイと言っていたり、彼の感性は僕には計り知れないものがある。
「僕ルー・リードが好きなんだ。その柄ってあんま見ないよな」
「えへへ。俺バンドTシャツ集めんの好きなんだよね」
「Tシャツ好きの癖に何でそんなに伸びきってるんだよ」
 伊能のTシャツは引っ張るまでもなくベロンベロンに伸びきっていて、柄もすっかり掠れている。好きなんだったらもっと大事に着ろよな。
「洗濯したらこうなっちゃったんだよ」
「手で洗え、手で」
「えー、面倒くせぇ」
 こんな風に喋っているうちに、ビデオの最初に入っている予告編が終わり、本編が始まった。
 僕も何だかんだ言って結局一緒に観てしまう。僕が主に観るのはサスペンスやドラマ系の映画なのだけれど、彼が観るのはアクションやコメディばっかりだ。
 まあ、たまには良いけど僕はやっぱり飽きてしまう。だから彼にも無理矢理法廷ドラマ映画なんかを観せたりする。けれどその内の半分は、彼は途中で寝てしまうのだった。
 こんな感じで性格や考え方が全然違うのに、不思議と僕達は気が合った。
 彼の開けっぴろげな性格や、ちょっと抜けているところが僕に安心感を与えるのかもしれない。でも、時々ドキッとするほど鋭いことを言ったりするので、実は頭の回転が速いのかも。ちょっと回転の仕方が違うだけで。
 そして僕は結局、伊能が入っていたあのサッカーサークルに入ることになった。



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