心もよう 空もよう
第七話
「松永か……」
いつもの鷹揚とした飯野の表情は消え、こめかみの辺りが僅かに引きつっていた。部署の違う飯野が見慣れた自分のデスクに座っている、という状況も相俟って、松永は一瞬目眩のような違和感を覚えた。
「そこにデータは残っていません。既にバックアップを取って別に移してあります……」
「それを寄越すんだ」
「飯野さん、どうしてですか」
人気の無いオフィスに切迫した声が響く。
「そのデータをどうするつもりだ。公取委にでも送るというのか」
「そうです。他にどんな使い道がありますか?」
「松永、俺はお前に再三注意を喚起してきたつもりだ。いや、警告と言ってもいい。こんなことまでしたくはなかったんだ。でもお前は手を引くどころか一向に諦める気配もない……」
「川上主査に俺の調査結果を垂れ込んでいたのは、飯野さん、あなただったんですね」
項垂れるように椅子に寄りかかった飯野の表情は、無言の肯定をしていた。椅子の軋む音。二十四階のオフィスにはそれ以外に物音一つしなかった。沈黙の長さに耳鳴りがしそうになる頃、漸く飯野が重そうな口を開いた。
「実は……、俺と川上さんとは古い付き合いでね。お前が入る前は部署も同じだったんだ。俺と違って野心家の川上さんは、仕事が出来過ぎる程よく出来て、端からは順調に出世街道に上っていくかに見えた。……しかし、現実はそうはいかなった。すぐに行き詰まってしまったんだ。学閥ってやつにね」
飯野と川上がそんな以前から知古の関係にあったとは、松永は知る由もなかった。入社して以来の付き合いだというのに、そんな素振り一つ見せなかった飯野に対して、更に不信感が募ってくる。
「うちの女性正社員を見てみろ。全員縁故で入社したやつばかりだろう。役員連中に至っては縁故でなければ学閥だ。ここはそういうところなんだよ。そういう中でのし上がって行くには、それなりの手段と犠牲が必要なんだ」
「だからと言って、役人を抱き込んだりするような真似は……」
「お前はまだ若いからそう思うんだ。今に判るよ。利用できるものは何でも利用しなければ逆にこっちが利用されるんだ。川上さんはお前に期待していた、もっと上に上がっていくやつだって……。連中に対抗するには、それ相当のポジションと駒が必要なんだ、判るだろう? 確かにお前は、俺たちが見込んだだけのことはあった。まさか建設協会の実体だけでなく、設計単価にまで目を付けてくるとは思わなかった。それを見て余計に俺達はお前を取り込もうと必死になった」
「でも、俺がそこまで出世出来るかは判らないし、第一、あなた方が抱いているような学閥への反発は俺は持っていません」
そこまで言って松永は、はっと口をつぐんだ。学閥への反発は抱いているじゃないか。課長だ。人のミスに付け込んで、あわよくば追い落とそうと狙っているあの目……。しかし、それはいつからであったろうか。初めはただ、松永に対して萎縮しているだけだったような気がする。
「それで……、課長に俺のことを何か吹き込んだんですね」
松永の感情を抑えた声に、飯野の顔色がさっと青くなる。
「いや、それをやったのは川上さんだ。俺とお前のところの課長とは直接の面識はない」
「そんなのはどっちでも構いません。課長はそれを鵜呑みにして、俺の排除に取りかかった。自然、俺は課長と対立している川上主査の側に付かざるを得ない」
さっき沸き上がってきた不信感は頂点に達していた。何故、こんなことになったのだろう。自分は初めから、川上主査の手の中で転がされていたに過ぎないのか。
「よく考えてみてくれ、松永。確かに俺達のやり方に問題はあるだろう。だが、正攻法でどうにかなる相手ではないんだ。このまま会社の底辺で燻ってるつもりか?」
しかし、いつまでも転がされているつもりはなかった。だからこそ、今まで地道に調査を続けていたのだ。切り札を手にしているのは自分なのだ。
「そんなつもりはありません。俺は自分の出来る限り上に行くつもりです」
「だったら……」
「かと言って、あなた方のやり方には賛成出来ません。そんなやり方で分不相応な地位に就いて、部下に対してどう申し開きをするつもりですか?
そんなことで学閥の解体や社内の体質改善なんて大胆な改革が出来るんですか? それでは根本的な解決にはなりません」
「そんなのは綺麗事だ。出る杭は打たれるんだぞ、松永……。これはお前の為に言っているんだ、こんなところで躓いてはいけない」
飯野の表情に嘘はなかった。確かに松永のことを案じての発言だととれた。心が揺れる。彼らのやり方に問題はあるが、成果を上げていることも事実だった。今まで弱かった公共事業を、特定の地域だけだが他業者が介入出来ないほどの業績を確立した。これによって川上主査の今後の地位は、学閥を頼らずとも少しずつ確かなものになっていくはずだ。それに比べて、自分の存在の小ささはどうだろう。一人でただ足掻いているだけで、結局何も出来ていない。何もない自分が、川上主査の派閥を抜けて何が出来るというのだろう。
「松永、判ってくれ」
ふと、早朝の慧逸の言葉を思い出した。「松永さんは、どうですか」と言った彼の、穏やかな声。あのとき、松永は何度心の中で反芻しても、その問いの意図が判らなかった。ただ、彼のあの人懐っこい笑顔をまた見ることが出来るのなら、自分は何でもやれるような気がした。
明日の朝、彼の問いの答えを言おう。
「俺は、俺のやり方でやります。公取委に申告します」
飯野の言葉を遮って、松永はそれだけ言うとオフィスを後にした。外に出ると、夜のオフィス街の喧噪が何処か遠い世界のように見えた。そこを足早に通る自分が、異邦人のような侘びしい疎外感を感じた。
その後松永は、確固たる決意の下、全て言葉通りに実行した。周囲は騒然となったが、その中で一人、渦中の松永だけは落ち着いていた。どんな処分でも受ける覚悟は出来ていた。
しかしただ一つだけ、やり遂げられなかったことがあった。
翌朝、慧逸の姿が突然駅前から消えていたのだ。
春の人事異動で、松永は本社勤務から現場への異動が決まった。役職が与えられ、今まで以上に忙しい毎日が続いている。
あれから、公正取引委員会に審査請求が提出され、会社には一ヶ月間の営業停止処分が下った。しかし、取り調べを受けたのは川上主査と(株)ケイシーエスの蓮田、及び関係下請け業者だけで、フィクサーらしき例の佐々原という男は、名前すら挙がることはなかった。ひょっとしたら本名ではなかったのかもしれない。多額の報酬を受け取って着服していた蓮田には実刑が下り、川上主査は北九州の支店に『栄転』して行った。
松永は月に一、二度本社に赴く程度で殆ど現場勤務だった。厄介払いをされたという感は否めないが、ほとぼりが冷めるまでは、この方が松永にとっても気が楽だった。
先輩の飯野とも、あれ以来顔を合わせていない。過去は水に流そうなどと言って、元通りの付き合いが出来るほど松永は人間が出来ていなかったし、飯野も同じように思われた。年月がこういうわだかまりを和らげてくれるのかもしれないが、それは当分先の話になるのだろう。
桜は既に散りはじめ、アスファルトを灰色と薄いピンクのまだら模様に染めていた。しかし、桜の花がどんなに鮮やかに街を彩っていても、松永にとって早朝の駅前というのはやはり、色彩のないところだった。
慧逸の姿があれから見えることは無かった。初めのうちは、もしかしたら突然具合が悪くなったのかもしれないなどと心配したり、自分が何か悪いことでも言ったのではないかと不安に駆られたりした。そして何事もなく日々が過ぎ、どんなに自分が案じていても何も変わらないのだと悟り始めた頃には、あちらの都合で来れなくなったのだろうと、割り切って考えようと努めるようになった。
しかしそれでも、過ぎていく日常の中で駅前に置きっ放しになった松永の思いは、そこを通るたびに、募っていく一方だった。