心もよう 空もよう

最終話


 空虚な日々が過ぎていった。駅前でめぼしい人に尋ねてみても、誰もあの托鉢僧のことは知らなかった。それもそのはず、当の松永でさえ、彼の僧名以外は何も知らなかったのだ。自分の話ばかりで、殆ど彼についての話をしていなかったことを痛感する。彼はいつも穏やかな表情で、松永の話に耳を傾けてくれていた。
 以前のように話は出来なくても、せめてもう一度会いたかった。会って何かしたいというわけではなかったが、早朝の澄んだ空気の中で、白い息の向こうに見えたあの人懐っこい笑顔を、もう一目だけ見たかった。


 そして松永は、彼に再会出来るかもしれない偶然や奇跡を、ただ待っているだけというほどロマンチシストでもセンチメンタルな性格でもなかった。手掛かりになりそうな彼との会話を思い出そうと必死に記憶を掘り起こす。全くの一方的な会話ではなかったはずだ。必ず彼も自分のことを話しているに違いない。
 そう言えば、托鉢免許状を見せて貰ったことがある。しかしちらりと見ただけで、寺院名や本山の名前までは覚えていなかった。あの時は、あまりじろじろ見るのも失礼だと思って遠慮したのだ。あれさえもっとよく見ておけば、と一頻り後悔する。
 もう一つ、確か彼は「日下部市民」だと言っていた。寺院がそうそう移転するはずもないから、僧侶を辞めない限りきっとこの市内にいるはずだ。更に、この辺に住んでいるのかと訪ねたら、「バスでここまで来ている」とも言っていた。バスの沿線にある寺院を虱潰しに調べていけばそのうち見つかるかもしれない。しかし、日下部駅に向かうバスはいくらでもある。気の遠くなるような作業だ。
 どんなに思い出しても手掛かりはその程度だった。いかに二人の関係が、心許ないものであったかが判る。生来、大して信心深くないも松永が、僧侶と会話するということ自体が非現実的だったのだ。



 そんなある日、会社の部下が忌引きで休むことになった。休み明けに出社してきた彼は、松永に土産を渡しながらこんな話をした。
「突然、すみませんでした、四日も……」
「こればっかりは仕方ないからね。気にするなよ。でもちょっと長かったね」
「本当にすみません、うちの母方のじいさんだったんですけど、実は、葬儀をする宗派で揉めまして」
「宗派?」
「本家を含め兄弟はみんな真言宗だったんですけど、一緒に暮らしていた息子夫婦は曹洞宗だったんです。というのも息子夫婦、つまりうちの叔父は後から仏門に入った人でして。でも結局、本家の真言宗の方でやったみたいですね。俺はあんまりそういうの詳しくないんですけど」
 宗派。今まで松永は仏教をひとくくりで考えていて、それぞれ宗派があることにまで思い至らなかった。仏教は仏教でも、宗派によって教義や経典など細々と分かれているものだ。つまり、慧逸も何かしらの宗派に属しているはずだった。
 そもそも、托鉢を業としているのは禅宗だけだ。托鉢免許状まで持っていたではないか。禅宗にもいくつかあるが、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗に大別できる。彼の唱えていた経の文句が思い出せないのでそこまでは判らなかったが、市内の禅寺に絞って調べてみれば、きっと手掛かりが見つかるだろう。



 思い立ったらじっとしていられない質の松永は、休日になるとすぐに、駅前にある交番を訪ねた。手っ取り早く判りそうなのが他に思いつかなかったし、就職してからこの街に住み始めた松永は、一番近くにある寺院が何処にあるかも知らなかった。ここが駄目なら、観光案内所にでも調べに行くつもりだった。
「市内のバス沿線にある禅寺ぁ?」
 松永と同じくらいかもっと若そうな巡査は、壁に貼られた大きな町内地図を見て考え込んでしまった。
「お寺はいくつかあるんですけどねえ……」
 やはり駄目だったか、と項垂れていると、アルミサッシの扉をガラっと開ける音が聞こえた。
「どうした?」
 入ってきたのは、そろそろ定年間近という感じの老巡査だった。松永は事情を説明すると、
「この市内で禅寺と言ったら、方永寺しかないね」
 と老巡査はぶっきらぼうに答えた。
「方永寺……」
「お参りにでも行くんですか」
「え? え、ええまあ」
「そうですか。お若いのに感心ですな。まあ頑張って」
 と、がっしりとした手で松永の肩を叩いた。何故「頑張って」と言われたのか不思議だったが、二人の巡査に礼を言うと、松永は交番を後にした。
 駅前からバスに乗って、出発から二十分も経つ頃には次第に乗客は疎らになり、車窓から見えるのは田畑と人家と雑木林が交互に広がる長閑な里山の風景になっていった。毎日駅前と家の往復しかしない松永は、市内にまだこんな風景が残っているのかと感心した。
 暫く帰っていない故郷の景色を思い出す。砂利道の先に広がる、水田と麦畑の青さ。故郷の山々には、山頂にまだ雪が残っているだろう。松永は車窓の風景を眺めながら、ここまで来てもし違っていたらと少し不安になったが、もし違っても今度は彼に会えるようにお参りでもしてくればいいと、前向きに考えることにした。


 ……何故、老巡査が「頑張って」と言ったのかが判った。
 延々と続く石段を見上げながら、終わりの見えない階段に松永は途方に暮れていた。
 始めのうちは腐りかかった木造の階段が続き、今は石造りの階段になっていた。ところどころ崩れかかっていて非常に歩きにくい。更に、石に付いた苔に時々滑りそうになる。松永は、革靴で来たことを激しく後悔した。まさかこんな登山が待ち受けているとは考えもしなかった。そう言えば、家にここ十年近く履いていないナイキのスニーカーがあったはずだ。箪笥の肥やしにするくらいならあれを履いてくればよかった……などと考えているうちに視界が開けて、石段がコンクリート造りに変わった。ふと振り返ると、木々の間を抜けて、青い空が目に飛び込んできた。新緑と青空の鮮やかなコントラストに、暫し目を奪われる。
 ここは、目線の高さに空があった。
 漸く階段を登り切ると、かなりくたびれた感じの古寺が姿を現した。所々屋根瓦が欠け、柱の木材も朽ちて黒ずんでいる。寺の横に玉砂利の敷かれた庭があったが、雑草だらけで庭師の手が入っている様子はなかった。辛うじて、障子の紙をいくつか貼り替えてある形跡が人の居る痕跡を残している。松永は、とりあえず近くにあった賽銭箱に百円玉を放り込んだ。
 カラカラと百円玉が賽銭箱に落ちていく。と、同時に、庭の方から玉砂利を踏む音が近付いてきた。
「ま、松永、さん……?」
 驚きに震えたその声は、確かに会いたいと焦がれていた人のものだった。



 寺の廊下は歩く度にギシギシと軋み、梁に積もった埃と共に、その古さを物語っていた。
「古い寺で吃驚したでしょう」
「いえ、なかなかの古刹で」
「そう言うと聞こえはいいですけど、古過ぎて掃除もままならないんですよ……あ、足が、……すみません、履き物を用意すればよかったですね」
 ちょっと歩いただけだというのに、松永の靴下の裏は真っ黒になっていた。いつも慧逸の白足袋が煤けていたのは、この床の所為だったようだ。
「あ、いえ、気にしてませんから」
 目の前を歩く慧逸は簡素な黒い袈裟を着ていて、見慣れない彼の姿が何やら眩しく、松永は直視することが出来なかった。
「今、本堂ぐらいしか片付いていなくて。どうぞお入りください」
 座禅堂を兼ねた本堂は縦長の部屋で、他の部屋より埃の溜まり方が幾分マシなようだった。広い部屋で、歩く度にギシギシと軋む音が天井に響いてより大きく聞こえる。埃が被っているので判り難いが、欄間の意匠はなかなか凝っているようだった。松永は円座に座ると、この雰囲気に飲まれたのか自然と足を組んで姿勢を正した。


「あ、あの」
 二人同時に言い出して、同時に口を噤んだ。いくらお互いの顔を見合わせても会話が続かない。
 遠くから鳥の鳴く声が聞こえる。二人の会話を妨げるものは、静寂だった。風が、木々の揺れる音と共に本堂をそっと吹き抜けていく。
 先に口を切ったのは、慧逸の方だった。
「……松永さん、すみません」
 そう言って慧逸は深々と頭を下げた。それを見て松永は慌てて彼を起こす。顔を上げた慧逸の眼差しは、静けさと穏やかさの奥に切実な色を滲ませていた。
「貴方が謝るようなことは何も」
「いえ、私は……自分の言ったことで貴方に何かあったらと、気が気でなかったのです。松永さんは仕事のことで悩んでらっしゃった。門外漢の私が口出しすることではないのです。それを判っていながら、私は貴方と話したいが為に、まるで知った風な口を利いていた」
 松永は、彼がそんな風に自分のことを考えていたことに驚くと同時に、彼の曇った表情に戸惑いを覚えた。駅前で会うとき、彼はいつもゆったりとした表情で、穏やかな、人懐っこい笑顔だけを見せていた。


「私は……私は、人様に教えを説くなどと大それたことが出来るような人間ではないのです。私は寺に生まれ、後継になるべく育てられました。ずっとそれに反発を覚えていたにも関わらず、結局流されてそのまま坊主になってしまった。だから私は、僧侶の世界しか知らないのです」
「でも、住職の資格を得るには何年も修行をしないといけないんでしょう? 僧堂での修行は厳しいと聞きました」
「ええ、大学の仏教科を出てまもなく掛搭し、僧堂に入り修行をしました。しかし大卒ならば三年で出られるところを、何だかんだと五年もかかってやっと出させて頂いたのです。それでも、師僧に心の緩みを指摘され、私はあそこに立つことになったのです。私は……情けない自分を貴方に知られてしまうのが怖くなって、駅前から逃げ出したのです」
 慧逸はそう言うと、恥ずかしそうに顔を伏せた。
「私は、社会に出て第一線で働いている松永さんが、眩しかったんです」
 松永は、暫く何も言うことが出来なかった。自分は彼の表面だけを、僧侶である彼を見ていただけで、彼自身のことは何も見てはいなかったのだ。
「慧逸さん、お願いですから顔を上げてください」
「私は松永さんにご迷惑を……」
「そんなことはありません、貴方の言葉がどんなに支えになったか……。確かに結果は厳しいものでした。でも俺は、自分のしたことに後悔はしていません。だから貴方にも後悔して欲しくない」
 俯いた慧逸の顔を、松永は一歩前に出てそっと覗き込んだ。自然と手が触れ合う。
「貴方が言っていたように、出会ったことには意味があるんだと、俺も思うようになりました」
 松永の言葉に、恐る恐る上げた慧逸の顔は、お互いの息がかかる程近かった。静かな本堂内に自分の鼓動の音が鳴り響き始める。彼の黒目がちな瞳が微かに潤んだように見えて、ゆっくりと瞬きをした。松永は、気が付いたら彼の手を握っていた。
「松永さん……あの」
「はい」
 握った彼の手は少しひんやりとしていて、反対に頬はうっすらと赤く染まって見えた。黒目がちな瞳に吸い込まれそうになり、思わず握った手に力が入る。
「あ、あの、聖僧様が見てらっしゃるので……」
「は?」
 間の抜けた声を上げたまま上座の方を見ると、伽藍の中から文殊菩薩像がじっとこちらを見ていた。
「す、すみません……」
 松永は慌てて手を離し、上座に向かって手を付き深々と頭を下げた。



 既に日は傾き始め、長く伸びた木々の影が地面に濃い陰影を形作っていた。青く映えていた新緑の木々も、夕日の影色になっている。
「暗くなると、ここ降りるの大変ですから」
 慧逸はそう言って、松永を境内の入り口まで案内した。苔にびっしりと覆われた狛犬が、阿吽の姿勢で外を睨み付けている。
「あの……また、会えますか」
 緊張気味に松永は慧逸を真っ直ぐ見つめた。逆光の所為か表情はよく見えなかったが、松永の視線を避けるように少し俯いているのが判った。赤く差し込む夕日が、弥が上にも焦燥感を煽る。
 再び、沈黙が辺りを包んだ。この沈黙は明らかに松永の申し出を躊躇しているように感じられた。突然寺まで押し掛けてきた松永に臆しているのかもしれない。
 しかし慧逸は 、彼にしては機敏な動作で顔を上げると真っ直ぐに松永を見つめ返した。
「……はい。私、またあそこに立とうと思います。途中で投げ出しいてばかりだった中途半端な自分に、何とか決別したいのです。だからまた、駅前で声を掛けてください」
 そう言った慧逸の表情はいつも通り穏やかだったが、今度はその黒目がちな瞳の奥の情感が見えたような気がした。
「素通りしようとしても駄目ですよ。私、足元見ただけで松永さんだって判りますから……」
 少し恥ずかしそうに微笑んだ慧逸の表情に、松永は堪らず一歩前に進み出た。
 長く伸びた二人の影が重なり合って、更に長く伸びた木々の影と暗くなり始めた空の色に溶けていった。



2004年公開
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