心もよう 空もよう

第六話


 月曜の会議の席で松永は、先日契約を逃した公団住宅の件について課長にねちねちと責め立てられていた。予想していたこととはいえ、上から来る仕事をそのまま右から左に流しているだけの人にこれだけ言われると、さすがの松永も心中穏やかではなくなってくる。
「松永君、公団との契約というのはね、君が思っている以上に重要なんだ。一度決まればその後の改装や修繕工事、増改築などの仕事が入ってくるし、更に周辺地域の再開発の仕事まで話が回ってくることもある」
 そんなことは、この人に言われるまでもなく松永にはよく判っている。何故逃したのかと言えば、竹下建設の介入を予期出来なかったからだ。こういう情報は、上からそれとなく入って来るものだが、今回に限っては全くそれらしい話は直前になっても出てこなかった。
「申し訳ありません。私が事前の情報収集を怠ったためです」
 何故、事前に情報が入ってこなかったのかは何となく判っていたが、敢えてそれを追求する気にはなれなかった。無表情に頭を下げる松永を、周囲の社員がちらりと気の毒そうに目を遣る。
「情報収集ねえ……。君はむしろ得意そうだがねえ」
 冷めたお茶を啜りながら向けられた視線と、何か含みがありそうなその言葉に、それまで無表情だった松永の目に一瞬狼狽の色が見えた。しかしすぐに気を取り直すと、何事もなかったように軽く頭を下げた。
「松永さん」
 会議が終わり席に戻ると、心配そうに後輩の二岡が声をかけてきた。
「気にすること無いですよ、松永さん成績いいから課長のやつ、やっかんでるだけですよ」
「あ、ああ……」
 椅子に寄りかかりながら気のない返事をする。気になるのは、今日追求された件ではなく、あのときの課長の意味ありげな視線だ。
「いや、今回のは俺の落ち度だよ。君もこれから課長には世話になるだろうから、あまりそういうことは言わない方がいい」
「課長の世話なんてアテにもならなそうですけどねえ」
 やはり二岡は何も知らないようだった。当てにならないどころか課長はおそらく、同期の中でもかなり出世の早い方なのだ。これが何を意味しているのか彼が気付くようになるのは、まだ暫く先なのかもしれない。


 この日珍しく、川上主査に昼食に誘われた。近頃、川上主査と食事の席を一緒にすることが多いような気がしていたが、二人きりというのは今日が初めてかもしれない。
「今日は絞られたねえ」
 サラリーマンが昼食に行くにしては洒落たレストランだった。この前の白科といい、川上主査は落ち着いた小綺麗な店が好きなようだった。
「ええまあ、仕方ありません」
「なあに、君には『次』があるからな。心配することはない」
 前菜がやってきた。和食材をフレンチ風にアレンジしたもので、丸められた鮪の切り身が繊細なソースに彩られていた。
「松永君。それだけに『次』の仕事は、君にとって大きな意味を持ってくるだろう」
 前菜がまだ殆ど残っている状態でメインディッシュがやってきた。松永は意味もなくナイフとフォークを動かす。
「『ケイシーエス』が何であるかは、その前あっては小さなことだよ。君がどれだけの情報を握っているのか、こちらは判っている。だがね、大切なのは、目的を達成することなんだよ」
「川上主査、俺は……」
「君に選択権はない。もうそういう所まで来てしまったんだ」
 テーブルには、全く手を付けていない皿がずらりと並んでいた。



 昨夜からの冷えが一層堪える早朝だった。朝の冴えた空気の中で一人、沈痛な面持ちの松永は、自分の吐く息の白さばかり見つめていた。
 その白い息の向こうに、いつも通りゆっくりと経を唱える慧逸の姿があった。彼の声は、冷たい空気を通すとより清澄に聞こえてくる。
「俺は結局、自分のことしか考えていなかったんです」
 松永は、自分の前に立ちはだかるものが、既に自分の許容範囲を大きく超えていることをひしひしと感じていた。昨日は事実上、川上主査から釘を刺されたも同然だった。自分のやっていたことは筒抜けだったのだ。
 それに何より、唯一の理解者であったはずの飯野の離脱がショックだった。事ある毎に相談してきた仲だった。しかしよく考えてみれば、端から飯野は今回の件に関してはあまり乗り気ではなかった。それを一人早合点して、協力してくれるものだと思い込んでいた自分が滑稽だった。皆、自分のことで精一杯なのだ。
「松永さん……」
「段々判明してくる事実が面白くなかったと言えば嘘になります。俺は……自分のしたことがどのような影響を及ぼすのか、そこまで考えるに至らなかった」
 項垂れながらそうつぶやく松永に、慧逸はわざと明るく答える。
「私は、今あなたがなさっていることが悪いことだとは思えません。私も日下部市民ですから、自分の払っている税金が有効に使われるに越したことはありません。他の住民の方たちもそうでしょう」
「えっ、慧逸さん、この辺に住んでらっしゃるんですか?」
「ええ。ここまではバスで来てますよ」
 いつもの人懐っこい笑顔。ただそれだけで気持ちが軽くなる。じんと冷える足元も、吐く息の白さも、彼の前では早朝の白んだ日の中に掻き消えてしまう。
「ただ、良いことをしたからと言って、全てが良い方向に行くとは限りません」
 穏やかな口調で紡がれる言葉は、その穏やかさとは対照的に、松永の心を深く抉るように刻み込まれる。
「その川上主査という方は自らの地位向上のために、先輩の飯野さんは子供と家族のために、課長さんは自分の保身と会社の安定のために、それぞれ腐心してらっしゃいます。それが悪いことだとは思えません。……松永さんは、どうですか」



 慧逸の問いかけに、まだ松永は答えを出せないでいた。
 データは揃っていた。一体どこからあの高額なバックマージンを捻出しているのか掴んだのだ。それは、管区内の下請け業者や建材業者を巻き込んだ設計単価の吊り上げにあり、松永はそれを一つ一つリスト化していった。
 帰りの電車に揺られながら、この作業もやはり川上主査には筒抜けなのかと、天井を仰いだ。吊革がわずかに揺れ、地下鉄独特の、耳鳴りのような騒音が通り過ぎていく。結局自分は何がしたいのだろう。そして、自分は何をすべきなのだろう。
 ふと、あの時の川上主査の言葉が脳裏を過ぎった。「君がどれだけの情報を握っているのか、こちらは判っている」……
 『こちら』という言葉に何か引っかかった。川上主査個人が握っているのならば、『私』などと言うのではないか。それは、握っているのが川上主査以外の人間もいるということを意味するのではないか……。
 気が付いたら、電車を駆け下りていた。一度も下りたことのない駅だ。反対方向のホームを覗いたら、まだ上り電車が来るまでには暫くかかりそうだった。駅の改札を出て、タクシーを呼び止める。
 幸い、タクシーはすぐに捕まった。行き先の本社ビルを告げると、タクシーは高速道路に入って行った。
「こっちの方が早いんですよ」
 出来るだけ急いで、と言った松永の意を汲んで、運転手は高速道路を飛ばして行く。あっという間に本社ビルが高架橋から見え始めた。退社時間をとうに過ぎているというのに、いくつか明かりが見える。ちょうど松永のオフィスのある二十四階の西側にも明かりが点いている。松永は自分の予感に戦慄した。
 オフィスに舞い戻ると、ちょうどそこだけ明かりの点いている部屋があり、松永は早足に向かって行った。
「そこにはもう何も入っていませんよ、飯野さん」
 松永の声に驚いたのか、机上の書類が床に落ちて行った。振り向いたその顔は、確かに先輩の飯野だった。



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