心もよう 空もよう
第四話
松永はもう、躊躇うのをやめた。思い切って日下部市役所にまで出向いてみようと決心したのだ。外からあれこれ考えを巡らすより、中で実際に目にしてみた方が、何か手がかりが掴めるかもしれない。
以前と違って外回りの仕事がかなり減ってきた松永は、まず市役所に行く口実を作るのに苦心した。役所というものは、普通に働いている人間が行けるような時間には開いていない。結局、無理矢理契約先に用事を作り、その会社に行った帰りに寄ることにした。
既に、日下部市発注の公共事業の落札率の殆どが90%を超えていることは判っていた。これは、自社だけではなく他の企業の落札率も同じで、一見、談合のようにも見受けられるが、他の企業の影は薄く、問題はもっと別のところにあると松永は踏んでいた。普通、落札率が98~100%まで行くと明らかに談合の証拠になり得るのだが、日下部市の場合、90%代前半に留まっている。自由競争入札では60~80%と言われているので、これはかなり上手く操作していると見ていいだろう。
しかし、現在のこの状況証拠だけでは、公正取引委員会に審査請求をしても、自社の営業停止処分を招くだけで根本的な解決にはならず、割に合わない。ここ数年の殆ど寡占に近い指名業者の面子、落札率の高さと安定した数値は、官側の関与と協力無しには成り立たないというのが松永の考えだ。つまり、関係している役人の洗い出しをしてみようという訳である。
昼過ぎの市庁舎は意外と人が多い。今日、意気込んで市役所にまでわざわざ出向いて来た松永だったが、実は、特にアテがある訳ではなかった。
昼の生温い空気に包まれた一階のロビーは、次々に人がやって来ては引き返して行き、その流れは時折停滞を見せつつも止まることはない。何故、こんなに人は忙しく行き交うのだろう。人の動きは自由運動のようでいて法則があるのではないかと思い、その運動一つ一つを方程式に当てはめてみようと、全体と個々を交互に眺める。あのときも、こんな風にエレベーターホールから所在なくロビーを眺めていた。
見付かりもしない法則を求めながら眺めている内に、重役らしき男と、それを先導している中間管理職らしき男がエレベーターホールに向かって来るのが目に入ってきた。中間管理職風の男はこれ見よがしに上に行くボタンを押し、重役風の男に昼食に行った店の話などをしている。エレベーターがなかなか降りて来ないので、中間管理職風の男は苛立たしげにもう一度ボタンを押した。
前にもこんな光景を見たことがあるような気がして、松永はそれをじっと眺めた。そうだ、あの『蓮田』という男と会ったのは、このエレベーターホールだった。確かあのとき彼は、こんな風に誰か連れが居たはずだ。だから、松永に声を掛けられあんなに狼狽えていたのだ。しかし、連れがどんな男だったのかは思い出せない。
ここで松永はあることを思い付いた。一つ、鎌をかけてやろうと思ったのだ。
建設課は市庁舎の四階にあった。そう言えば、松永は役所に営業に行った経験は無い。元々公共事業には弱い企業なので、この方面の新規開拓にはさほど力を入れてはいないのだ。
古めかしい字体で書かれた「建設課」の札のあるオフィスに入ると、入口近くに座っていた年輩のお局らしき女性職員が顔を上げた。
「あの、『蓮田』さんはいらっしゃいますか」
相手に気取られないよう、落ち着き払って声を掛けた。松永の声にお局風の女性職員はしばし考えるような表情をした後、
「蓮田はもうここには居ませんよ」
「ではその、今何処にいらっしゃるかご存じありませんか」
「今は北町の方に……」
女性職員がそこまで言うと、後ろの方の机から「叶野くん」と声が掛かってきた。この女性職員の名前らしく、彼女は一礼するとその声を掛けた中年の男の席に向かって行った。しばらく二人は小声で何やら話し合っていたが、再び女性職員の方が松永の方にやって来た。
「あのう、うちの課に蓮田という者はおりませんが」
「でも、……」
と言いかけて、松永は慌てて口をつぐんだ。深入りは禁物だ。
「そうですか、判りました。では失礼します」
どちら様でしょうか、と言う声を阻むように松永はそう言うと、一つ会釈をしてさっさとオフィスを出て行った。
『北町』と言う言葉を聞けただけでも収穫だった。あの、貰った名刺の住所にも日下部市『北町』と書かれているのだ。
この日はあいにくの雨だった。自分の足音より強い雨音が跳ね返り、身体をじとじとと湿らせていく。さすがにこんな酷い雨の日には居ないだろうと踏んでいた松永は、駅前で見慣れた網代笠が目に入ったとき、思わずあっ、と小さく叫んでしまった。
「大丈夫ですか?」
松永がそう声を掛けると、ゆっくりと笠を持ち上げ、慧逸はいつもの人懐っこい笑みを浮かべた。
「平気ですよ」
「でも……、こんな雨の中で立っていること無いのに」
「松永さんだって、雨だからと言って仕事を休んだりはしないでしょう?」
笠で影になっている部分を残して、くたびれた法衣が雨をすっかり吸って重たそうになっていた。足元の白足袋は、跳ねた泥と雨で濡れて殆ど色が変わっている。その姿があまりに憫れに思えて、松永は自分が濡れるのも厭わず、さしていた傘を彼の方に差し出した。
「ずぶ濡れじゃないですか。少し、休みませんか」
「松永さんがそう言うなら……」
近くにある小さな公園に向かった。彼を屋根のあるベンチに座らせて、自動販売機で缶コーヒーを買い、それを渡す。
「ありがとうございます」
両手で包み込むように受け取ると、彼は暫くそれを頬に当てて暖まっていた。あまりに長くそうしているので、低温火傷をするんじゃないかと心配になって、思わず松永は彼の顔を覗き込んだ。
「あの、ほっぺた平気なんですか」
「え?」
頬が少し紅潮して、冷たくなっていた手も、指先だけ赤みが差していた。鼻の頭も赤くなっている。あまり見慣れない彼の表情に、松永は柄にもなく狼狽えてしまう。
「いえ、平気ならいいんです」
やっとそう言うと、自分も缶コーヒーのプルタブを開けてコーヒーを飲み始めた。
屋根に当たる雨音が、次第に強くなってきた。コーヒーの熱さと空気の湿っぽさが喉を通って、身体の中で溶け合っていく。身体が少し温まると、雨に濡れた足元の湿っぽさが気になった。
「……で、その人には会えたんですか?」
「いえ、まだです。そのうち会わないといけないでしょうね」
ここの所、自然と彼に仕事の話をするようになっていた。最近は、彼のゆったりとした会話のペースにも慣れ、かえってその方が落ち着いて話せるほどになっていた。
「大変ですね、仕事の合間を縫ってやってるんでしょう?」
「ええ、でも、段々判ってくると面白くなってくるもんです。まだ俺が把握しているのはほんの一部に過ぎないのかもしれませんが……」
確かにその通りだった。未だ松永は、自分を取り巻く組織の一面を見ているに過ぎなかった。頬に赤みが差したままの慧逸が隣でゆっくりと頷くのを見て、雨の日も悪くないな、などと思う余裕が、まだこの時の彼にはあったのだった。
職場では、何故か仕事があまり回ってこない日が続いていた。任されるのは雑用のような案件ばかりで、大きな契約などは手からすり抜けるように回ってこなかった。他のことで忙しいとは言え、本業が上手くいかないと、かえって気ばかり焦ってしまう。
「松永君、今夜空いてるかね」
そんなとき、川上主査は狙ったように声を掛けてくる。無論、断る理由もない。
「はい、空いてます」
川上主査が満足そうに頷いた。
「今日は『白科』に行こうと思ってね」
ギクリとした。ゆっくりと顔を上げた松永に、川上主査は温厚そうな笑みを向けた。以前、接待したあの男の顔が浮かんでくる。
ひょっとしてこれは牽制なのだろうか。いや、自分が市役所にまで出向いたことは誰も知らないはずだ。これはただの偶然に過ぎないと、松永は自分自身に言い聞かせた。