心もよう 空もよう

第三話


 彼が深く被った笠をゆっくりと持ち上げたとき、そこはもう排水溝の縁ではなくなっていた。いや、依然排水溝にいることに代わりはなかったが、そこに流れ込んでいるのはもう、汚水と言うには透明度が上がり過ぎていた。
「えっと、その」
 思いも寄らない返事をされたので、何と言っていいか判らなかった。黒い瞳が真っ直ぐ見つめてくる。思ったよりも若い僧だった。
「いい天気ですね」
「え?」
 今度は全然違う話題を振られ、また松永は戸惑う。とりあえず空を見上げると、確かに空は晴れ渡っていた。雲がゆっくりと流れている。流れる雲を見るのは随分久し振りなような気がした。
「……ええ、いい天気ですね」
 松永がやっとそう言うと、彼は人懐っこい笑みを浮かべた。
「あの……」
「は、はい」
 彼の話し方は、今見上げた雲のようにゆったりとしていて掴み所がない。だから松永は、彼が話し始めた途端に返事をしてしまう。
「な、何でしょう?」
「あの、電車」
「……電車?」
「行っちゃいますよ」
「えっ」
 振り返ってみると、駅の構内から上り電車発車のアナウンスが流れていた。あの急行に乗れなければ遅刻は確実だ。
「す、すいません、あの、失礼しますっ」
 何故か勢いよく頭を下げて、慌てて階段を駆け上る。勿論、間に合うはずもなく、電車が走り去る音が構内から響いてきて、松永は階段の半ばでがっくりと肩を落とした。
 ふと、下を見下ろすと、あの僧侶の鉢の中に、自分の入れた百円玉が見えた。



「松永さんが朝礼に遅れるなんて珍しいですね」
 職場に着いて一息入れていると、後輩の二岡が隣に座ってきた。
「あ……ああ、ちょっと電車を乗り過ごしてね」
「課長がまあた何かブツブツ言ってましたよー」
 おどけた調子でそう言うと、二岡は名刺をケースから取り出し、胸ポケットの名刺入れに移し替えた。
「何だ、これから営業回りか」
「そです」
「名刺、何枚入れた?」
「えーっと、五十枚くらいかな……」
 松永の言葉に、二岡はちょっと不安そうな表情で目線を泳がせる。おそらく五十枚は入っていないだろうと見込んだ松永は、二岡の名刺入れから更に名刺を取り出し、彼の手に渡してやった。
「だったら百枚は持ってきな。百枚配るつもりで行けば、五十枚ぐらいは配れるかもしれん」
「うわー」
 大袈裟な声を上げて松永から名刺を受け取ると、二岡は渋々それを胸ポケットに仕舞い込んだ。松永はそれを見て、頑張れよ、と彼の肩を叩いてやる。
「それと、担当者が不在で名刺置き場がデスクにあるとこ、あるだろ?」
「そんなとこばっかです」
「多分、今から行ったんじゃ箱いっぱいだろうから、適当に下の方に入れとくといいよ」
「え、それって何か意味あるんすか?」
 身を乗り出すようにして聞いてくる二岡に松永は苦笑しながら、
「さあね、その方が成約率が上がるって言われてるんだけど……まあ、まじないみたいなもんさ」
「なあんだ」
 そもそも、担当者のデスクに名刺置き場なんてものがあること自体、この業界の異常なところだが、こういう、名刺の数で発注先を決めるなどという胡散臭い噂が絶えないのは、業者によっては本当にそうしているところがあるからだ。松永はオフィスを後にする二岡の背中を眺めながら、そのことに何の疑問も持たなかった頃の自分を思い出す。
 松永は、川上主査から聞いた、あの養護施設の不祥事の件を結局、二岡に言わなかったことが心にこびり付いていた。
 あの様子では二岡は何も知らないであろう。こういう話は早めに各所に手を回しておかなければ、後の調整が大変なことになる。松永は二岡に対して別段悪い印象はない。いまだ学生っぽさは抜けないが、与えられた仕事は一生懸命こなしているし、裏表のない性格で周囲の評判も悪くない。
 しかし、何故、課長が自分が担当するはずだった養護施設改装工事の件を、他の社員ではなく二岡に回したのかも判っていた。そう、二岡は課長と同じ、学閥側の人間だからだ。



 あの早朝から、松永の朝の光景は全く違うものになっていた。
「おはようございます」
 経を聞き終わった後、決まってそう挨拶をする。
「おはようございます」
 そして、深く被った網代笠をゆっくりと持ち上げ、僧侶もそう答える。笠の下から現れる黒い瞳。黒目がちだと感じるのは、この半眼微笑の表情の所為かもしれない。
「いい天気ですね」
 晴れている日は決まってそう言う。特に意味もない、会話の切っ掛けを探す枕詞のようなものに過ぎなかったが、その所為で松永は、ちょっとした空模様が気になるようになっていた。ここの所は晴天続きだが、曇っていたら、雨が降っていたら、何と言って会話の切っ掛けを作ればいいだろう。風が強かったら、その風が冷たかったら……。
「そうですね」
 初めの内は誰もがそうであるように、話と言うよりは短い言葉の羅列だった。それが次第に、空模様を交えながら折り重ねられて行き、お互い交わされる会話という形になる頃には、言葉を斟酌しなくても、表情からそれを汲み取ることが出来るようになっていた。
「慧逸さん」
 足早に過ぎる周囲の通勤客の中で彼の僧名を呼ぶとき、松永は妙な優越感で浮き足立ちそうになる。僧名の持つ何処か非日常的な発音が、そう感じさせるのかもしれない。
「初めて声を掛けたとき、ここに立っているのは、俺が声を掛けるのを待つ為だって、言っていましたよね」
「ああ、あれは……」
 思い出すような表情を眉の上に一瞬走らせると、彼は穏やかな微笑から人懐っこい笑みに変わる。
「いきなりあんなこと言われて困っちゃって、実は適当に言っただけなんです」
「えっ」
 浮き足立っていた気持ちが、がくりと膝を折られてしまった。しかし、松永のそんな様子を気にする風もなく、彼はゆっくりと話を続ける。ゆったりと変わる表情は、かえって相手を翻弄し易いのかもしれない。
「でも……、松永さんとこうやって話すようになって、やっぱり自分は待っていたんだと思うようになりました」
「思うようになった?」
「ええ。僧堂で修行していた頃も、托鉢という行はありました。でも、そこは迎え入れる側の檀家さん達も慣れてて……こう、お米を一合、下さるんです。寧ろ私達駆け出しの雲水より慣れてらっしゃいますから、用意がいいんです」
 こういった行の作法は、各僧堂によって細部まで厳格に決められている。既に僧堂を下山し、住職の資格を取得している彼が行っているのは私鉢と言い、本山からの托鉢免許状というものを以前、松永は見せて貰ったことがある。
「ですが、こちらは違います。ここに立ったとき私は、好奇と無関心という相反する眼に初めて晒されました。駅前は私を拒否していたんです。しかしあのとき……、松永さんが百円玉を喜捨して下さったとき、それが変わったんです。駅前はもう、私を拒否するのをやめたのです」
 松永は不思議そうな表情を向けた。あまりに観念的過ぎて、雲を掴むような話に思えるのだ。
「……つまり、私が何の為にここに立っているのか、そのとき初めて意味が出来たのです」
「その、慧逸さん、もし、俺以外の人間が先にあなたに声を掛けていたら、どうなっていたんでしょうか」
「さあ、どうでしょう。私は松永さんが声を掛けて下さるのを待っていたのですから、他の人が声を掛けることはないと思います」
「あなたがここに立ったときから、俺があなたに声を掛けることは決まっていたと言うことですか」
「あなたがそう思うならそうでしょうし、思わないのなら違うのでしょう。ただ、私達がこうやって話をしている現実と同じように、私はそうだと思っています」
「何か禅問答みたいだ」
 松永が降参気味に頭を掻きながらそう言うと、彼はまた人懐っこい笑顔を向ける。
「そうですね、でも私、僧堂にいた頃、公案なんて全然出来なかったんですよ。だって簡単なことをわざわざ難しく言ってるみたいで……、あ、修行をズルした訳じゃないですよ。ちょっと苦手だっただけで……」
 今度は彼が頭を掻きながら苦笑する。笠が少しずれて、彼の顔が影になる。黒い瞳がより深くなって、穏やかな表情に陰影を添える。
「ただ、出会ったことや、こう話をしていることには意味があると、私は思うのです」
 彼が初めて、笠を持ち上げた瞬間を思い出す。黒目がちな瞳がゆっくりと瞬きをしたとき、排水溝に流れる汚水の透明度が上がり、均一だった早朝の景色が色彩を放つようになった。
 それにはどんな意味があったのか、頭の固い松永にはやはり観念的過ぎてよく判らなかったが、ただ松永にとって確実なことは、今持っている鞄はもう、空ではなくなっていたことだった。



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