心もよう 空もよう
第二話
相変わらず托鉢僧は、排水溝の縁にぽつねんと立ち尽くしていた。深く被った網代笠の下からはその表情を伺うことは出来ない。目に付くのは薄汚れた白足袋ぐらいだった。
早朝の通勤時の駅前というのは色彩がない。まだシャッターが閉まっている店や、明かりの灯っていない看板や、一方向にしか動かない人の流れが、朝という色に皆均一に染まっている。だから、同じく色彩のないその僧侶は目立たなかった。人を惹き付けるものなど何も無かった。
だが、松永はあの鉢の中を覗いてしまった。今日も空なのか、それとも何か中に入っているのか、どうしようもなく気になった。さり気なく通り過ぎて、階段の上から覗き込む。中が空だと確認すると酷く安心した。
しかし、もし、あの鉢の中に何か入っていたら、自分はどうするのだろうか。あの僧侶の鉢の中に何かが入るとすれば、それは誰か他の人が入れるということだ。自分の鞄には、自分しかものを入れることは出来ない。
松永がまず最初に取り掛かったのは、社が手掛けた日下部市の公共事業全ての、積算内訳書の見直しだった。積算内訳書は工事費用を算出し、入札の際に提出するもので、現場管理費や工事原価など詳細に記されている。入札価格をどう算出したかどうかは、これによって一目瞭然となる。
元来、この会社はあまり公共工事には強くない。しかし、この日下部市の積算内訳書を調べるに当たって、その数が尋常ではないことに松永はすぐに気が付いた。こういう企業はどんな仕事も細かく分業、分担され、手掛けている事業も多岐に渡っている為、その全体像は非常に掴み難い。また、日下部市の公共事業の中でも、松永が担当した清掃センター建設は規模が大きかった。その規模の大きさに目を奪われ、その他の日下部市が発注した工事にまで目が行かなかったのだ。
その上、実際かかった工事費用の算出は更に困難を極めた。粉飾まがいの決算も、年度末調整で上手く辻褄を合わせている。これは経理担当の腕の良さなのだろうが、この場合に於いてはそれが信頼できるデータなのかどうかも怪しいところだった。松永が特に注目したのは、それぞれの工事の際に掛かる管理費だったが、その内訳が不審なのかどうなのかすら判別し難い状況だった。結局、社内での調査には限界を感じざるを得なかった。
この調査は、他の社員に気付かれないよう慎重に行った。経理部に顔を出すときも、その部署の気心の知れた同期の同僚に頼み、自分から資料を直接取りに行くようなことはしなかった。こういう不穏な行動一つ取っても、出世の妨げになるような企業なのだ。手元に資料を置いたり持ち歩くこともしなかった。そうして、いつの間にか鞄が空になっていた。
特に松永が警戒していたのは、川上主査だった。今一つ覇気のない課長と比べて、勢力家で多くの仕事をこなし目先の利く彼は、他部署に頻繁に出入りするようになった松永を目敏く見付けては度々呼び止める。しかし、態度はいたっていつも通り、飄々としていていまいち掴み所のない人だった。
「松永君、養護施設の改装工事の件、あれどうなった」
「あ、課長が二岡に任せることになったって言ってましたけど……何かあったんですか?」
松永の言葉に、川上主査は声をひそめて詰め寄った。最近、この人とこんな風に話をすることが多くなった。
「そうか、それならいいんだ。いや、実はね、その養護施設、従業員による虐待疑惑が持ち上がってね」
「えっ」
「まあ、担当から外されたのなら都合がいい。そっちは二岡君や課長に任せておきなさい」
「でも……、その話はまだ公になっていませんよね?」
「ああ、だがそれも時間の問題だろう。なに、自ら面倒に巻き込まれることはないさ」
となると、その工事自体が中止になる可能性は大いにある。何故そんな重大な情報を川上主査は自分にだけ教えてくれるのか、ただでさえ警戒心の強くなっている松永にはあまりに不審に思えた。いや、それよりも、そんな話を一体何処から仕入れてくるのか、いくら情報通とは言え、余程役所に顔が利かなければ内部の不祥事まで判るはずがない。
川上主査が自分に目を掛けてくれているのは以前から判っていた。しかしそれにそのまま寄り掛かっていていいのか、松永の憂慮は深まるばかりだった。
松永が先輩の飯野とよく行く居酒屋は、会社近くではなく、乗り換えの時に降りるターミナル駅近くの店だった。飯野も同じくこの駅で乗り換えるから都合がいいというのもあるし、会社の近場では社内の人間と出くわす恐れがあるからというのもあった。こういう所で見知った顔に出会うのはどうも具合が良くない。
「お前、残業の方は大丈夫なのか」
「ええまあ、片付けようと思えば何とかなるもんです。やたらめったら残業すればいいって仕事でもないですし」
「あー、うちの部下にも聞かせてやりたいよ」
そう言って飯野は大袈裟に頭を抱え込んだ。こういうことをさらりと言ってのけるのはなかなか出来ることではない。
「そう言う飯野さんこそ……」
「いや、俺は適当に手ェ抜いてやってるよ。ま、それじゃあそっちの課長さんがすっかり萎縮してんのもしょうがないわな」
大食らい、大酒飲みの飯野に対して、酒はたしなむ程度の松永は、出された熱燗に少しばかり口を付けると、すぐにテーブルに置いてしまった。苦手な甘みの強い酒だった。
「どういう意味ですか?」
「だからさ、バブル期入社のやつらとお前ら不況組との間には深ーい溝があるんだよ。あの好待遇の頃の感覚が抜け切れていないんだ。連中は、上がつっかえてるから出世は出来ないし、下からの突き上げの激しさにも直面してる。特にお前の突き上げは激しいんじゃないのか?」
「そ、そうですか?」
「激しいからお前ンとこの課長はすっかり萎縮してるし、川上はお前を取り込もうと必死なんだ」
確かに、そう言われると思い当たる節が無い訳でもない。
「でも、課長は四年前の業界再編のときだって生き残り組だったし、萎縮してるなんてことは……」
「ああ、学閥のコネで生き残ったんだよ、あれは。あのリストラ祭りンときだろ?」
この古い体質の企業は、学閥という最早化石化したような言葉がいまだに横行していた。トップの役員の勢力図が学閥というもので構成されているからだ。入社して数年は特にそういうものは感じなかったが、ここに来て漸く、松永もその体質の根深さに気が付き始めていた。
「まあ聞いた話なんだけどさ」
無論、松永は学閥外の人間だ。この飯野も、そして川上主査もそうだった。川上主査が自分を取り込もうとしているのは、学閥外の人間だからだろうか。あの愚鈍な課長より、多くの仕事をこなし獲得している契約数も遙かに多いのに、川上主査はいまだに課長の下に付いている。
「リストラっつっても要は依願退職させる訳だ。だからどうしても嫌がるやつは論旨解雇ってことになっちまう。そんで、会社側はどうしても辞めたいって言わせようと色々画策するんだな」
「仕事をさせないわけですね」
「そうそう、んでさ、その四年前のリストラ祭りンとき、どうしても辞めないって頑張ってた管理職のやつがさ、異動させられたのよ」
「何処に?」
「受付に」
「えっ」
さすがに松永も、持っていた箸を落としそうになった。
「受付のさ、お姉ちゃん二人いるだろ? その間にさ、一日座らされるのよ」
「ま、まじですか」
思わず、制服のよく似合う美人の受付嬢の間に所在なく座る中年男の姿を想像し、薄ら寒くなった。
「でも四年前、そんなもん見た覚えないですけど……」
「まあ聞いた話だから。ひょっとしたらどっかの支店かもな。まあとにかく、上の連中は俺達の想像の上を行くってことよ。……その鰈の煮付け、食わないの?」
自分のところにあるつまみを平らげてしまった飯野は、今度は、目の前に置いときながら全然箸を付けていない、松永の鰈の煮付けに狙いを付けたようだった。
「あ、どうぞどうぞ」
煮付けの皿を飯野の前に置いてやる。話を聞きながらずっと思索していた松永は、殆ど何も箸を付けていなかった。
上層部が学閥で構成されているとは言え、課長クラスにまでその影響が及ぶものなのだろうか。もしそうだとすると、公共事業関連の調査をしていたり不穏な行動をしていることが課長の目に留まれば、上にまでその報告が行く可能性は高い。自分では慎重にやっているつもりでも、万が一と言うこともある。
ブラインドの紐を意味もなく引っ張ったり伸ばしたりしていた課長の姿を思い出す。あのとき、自分が担当するはずだった養護施設の改装工事の担当を、外されたのだった。そしてその養護施設の不祥事の情報を持ってきた川上主査。その川上主査に連れて行かれた料亭で接待した『蓮田』という男……。
日々の仕事と同じだった。細かく分かれていてその全体像が掴みにくい。いや、寧ろ、細分化することによって、その全体像を捉えにくくしているのだ。
松永は相変わらず空の鞄を持ち歩いていた。鞄に入っているのは自分の不安だけだ。堂々と調べることも出来ずに、とりあえず怪しまれないように必死なのだ。そうまでして調査を続けるべきなのかどうか、迷っていた。
朝の風景は変わらない。足早に駅に向かう人の流れ、駅前にひっそりと立つ托鉢僧。一月も経てば皆見慣れてしまい、誰も振り返らない。相変わらずあの鉢の中は空なのだろうか。こんな風に気にしているのは自分だけなのだろうか。
ふと、そんなに気になるのなら、自分であの鉢の中に何か入れてみればいいんじゃないかという思いが過ぎった。他の誰かが入れてしまうより先に、自分で入れてしまえばいいのだ。
深く被った網代笠が見えてくる。ポケットの中に入っていた百円玉を掴んで、思い切ってその鉢の中に放り込んだ。小気味良い音を響かせて、百円玉が鉢の中に落ちる。僧侶が静かに経を唱える。静かな、染みるような声だった。
「あの、何でこんなところに立って居るんですか」
思わず言ってしまった後で、後悔した。随分失礼な物言いに聞こえる。百円玉を入れたらそのまま通り過ぎようと思っていたはずだったのに、染みるような声に、何故か足を引き止められた。
松永のそんな言葉に、その僧侶はゆっくりと網代笠に手を掛けた。酷く緩慢な動きで、笠を少しずつ持ち上げていく。松永は、その動作が永遠に続くのかと思うほど遅く感じられた。
「あなたが声を掛けてくれるのを待つ為です」
深く被った網代笠が漸く持ち上がったとき、黒目がちな瞳が、真っ直ぐ見つめ返してきた。