フレームの曲がり方

第三話


 進まない、なんてもんじゃなかった。
 後退しているような気さえする。
オレは研究室の隅で、パソコンのキーボードを叩いては消し、叩いては溜息を吐く、を繰り返していた。

 あれからふらふらと家に帰ったオレは、そのまま何にもやる気が起きず次の日の昼まで寝てしまい、結局丸一日何もせずただ悶々と過ごしてしまった。やっと今日、夕方になってからのこのこと研究室にやって来たはいいが、今の今まで何も進まずただ溜息を吐くばかりだった。ああ、本当にヤバイ。
 修論の締め切りはもう間近に迫っているのに、土壇場になって何やってるんだよ、とオレは一人頭を抱えた。


 確かに西澤の言ってることは図星だった。オレは今まで、勉強や学問に関しては努力すれば努力しただけ返ってくるものあって、それが当たり前だと思っていた。大学も第一志望でストレートに入ったし、成績も常に上位で奨学金もらって、人より出来るのが当たり前だった。それには自分がそれだけの努力をしてきたという自負もある。立てた目標は確実にクリアしてきたし、これからもそうだと思っていた。
 でもそんなオレの自信は、あまりに簡単に覆された。しかもあんな事で。
 こんな奴の下でちまちま研究なんかしてられるかって感じで、就職を決めてしまったのはこの夏の終わりごろだった。
 時期的に遅かったにもかかわらず、先方から是非に、と言われ悪い気はしなかった。大学のボロい研究室で僅かばかりの予算と睨み合いながら、教授の機嫌取りつつ研究するなんて冗談じゃないと、その時は思っていた。学振だって確実に取れるかどうか判らないし、だったら企業で高給取りになった方が良いじゃないか。
 昔からの目標の博士号取得は、何故か霞んでしまっていた。そうだ、オレは安易な方の道を選んだんだ。
 それを西澤に指摘され、オレは腹を立てた。そうだよ、オレは挫折なんて経験したことないよ。だからこれしきの事で、すぐ諦めてしまう。あいつの真っ直ぐな眼は、オレのそんな半ば投げやりな気持ちを見抜いていたんだ。


 だが、何でそこから「好き」になっていくのかがよく分からない。
 初めはからかわれているのかと思った。でも、あの真剣な眼は違う……と思う。
 一緒に研究していきたいというのと好きであるというのは全然違うと思うし、あんな事をするくらいだから気の合う友人とかそんなものじゃなく、やっぱそれ以上の事なんだろうか。
 ああ、思い出したら何だかムズ痒くなってきた。オレ、一人で何恥ずかしがってんだ。
 修論が進まないのもあいつのせいだ。くそ、自分は言いたいことだけ言って逃げやがって。第一あいつ彼女いなかったか? なのに何でオレにあんな事したんだ馬鹿野郎。
 思い出せば出すほど段々腹が立ってきた。
 オレは無意識に机をバンッと乱暴に叩いた。周りに積まれていた雑誌や資料が机から落ちる。
「おい……大丈夫か?」
 その音に気付いて、助手の山際さんが振り返った。
「あ、いや、何でもないです」
「行き詰まってるみたいだな。今もうそんなこと言ってられる時期じゃないけど……。集中力切れたらおしまいだぞ」
 山際さんは落ちた雑誌や資料を拾うのを手伝いながら、オレの肩をポンと叩いた。
「気分転換にメシでも食いに行けば?」
 万年助手だけどいい人だなあ。あの教授にコキ使われてて文句の一つも言わない人だからな。
「じゃ、山際さん、一緒にどっか食いに行きませんか」
「……悪い、オレもうコンビニで弁当買っちゃったんだよね」
 だったら何でメシ食いに行けとか言うんだよ。一人で行けってのか。やっぱこの人万年助手だ。
「……じゃあオレも弁当買いに行ってきますわ」
 そういえばここんとこマトモにメシを食っていなかったので、栄養補給は必要だろう。気分転換はもっと必要なわけだし、オレは山際さんに留守を頼むと研究室を後にした。



 向かったのはそう、いつものお袋ショップだ。
 何でこんな名前を付けたのか、センスとかそういう以前にちゃんと商売をする気があるのか不思議だ。
 勿論佇まいもその名前に負けず劣らず、商売する気が全く感じられない。汚く狭い店内に何故か金魚の水槽があり、ここの常連が寄付したらしき雑誌やエロ本が野積みになっている。壁に掛けられた食品営業許可証の額縁は文字が読みとれないほど汚れがこびり付いてて、一体どんな手を使って許可を取ったのか謎は深まるばかりだ。
 オレが壁に掛けられたメニューを見ながらどれにしようか悩んでいると、誰かが入ってきた。
「……あ」
 多分、二人同時に言ったと思う。
 西澤だった。



 気まずい。
 物凄く気まずい。
 何か言った方が良いのか、でもこっちから口を切り出すのも何だかシャクだし、オレは完全に眼が泳いでいた。眼を反らしたってこんな狭い店内では嫌でも視線を感じてしまう。何でこいつがこんな店に、と思ったが、よく考えたらこいつにこの店を教えたのはオレだった。
「ちょっと! あんたたち何にすんの」
 そんな雰囲気を一気に壊してきたのは、店のオバハンの一言だった。カウンターの奥から鋭い視線を向けている。どうもこのオバハンは眼力が強いようで、いつも眼をギラギラさせている気がする。簡単に言うと、怖い。
「あ、オレ、コロッケ弁当」
「カキフライ弁当……」
 オレより高いもん頼んでんじゃねえか。まあ、オレが頼んだコロッケ弁当は日替わり弁当より安いから当たり前か。
 注文した後もどうしようもないくらいの気まずさが続いていたが、切り出したのは西澤の方だった。
「先輩、修論……どうですか」
 よりにもよって修論どうですかって、お前どのツラ下げて言ってんだ。お前のせいで全然進んでねえんだよ、ボケ! と、心の中で思ったと同時に、口から出ていた。
「……お前のせいだ」
「は?」
「…お前のせいで、全然進んでねえんだよ! どうにかしろ! オレが卒業できなかったらお前のせいだからな!」
 驚いている、というよりも半ば呆れているみたいな顔で、西澤はオレを見ていた。オレもよく考えてみたら滅茶苦茶なことを言っていると思ったが、何かに当たらないとこのムシャクシャした気持ちはどうにも収まらない。
「どうにかしろって……」
 西澤は呆れ顔で、頭の後ろをポリポリと掻いた。頭を掻くのは何か考えているときのこいつの癖だ。アーミー風のナイロンジャケットがそれに合わせて擦れた音をさせた。その音が妙に耳に障る。
「じゃあ、手伝いましょうか」
「は?」
 今度、呆れた声を上げたのはオレの方だった。



 結局、手伝うという西澤の言葉に乗せられ、二人で研究室に向かうことになった。
 正直一人じゃどうしようもないところまで来ていたから、有り難い申し出ではあったが、この気まずさの中でどうしろと言うのか。でもとにかくここまで来たらコキ使ってやる、とオレはよく分からない決心をして研究室に入った。
「で、何やればいいですかね」
 マフラーとアーミージャケットを脱ぎながら、何事もなかったように、いつも通りの態度で西澤はオレの顔を覗き込んでくる。その余裕っぷりが憎々しい。
「これ」
 オレはぶっきらぼうに海外のジャーナルを渡した。最近発表された論文だ。
「OCRソフト起ち上げて、スキャナにかけろ。その後翻訳ソフトで変換して、保存しとけ」
「え…っ、ちょっと待って下さいよ、それってウラ技過ぎやしませんか?」
「ちょっとは手を抜けって言ったのお前だろうが。時間があったらチェック入れたとこの文章、翻訳後推敲しとけ」
「手を抜けって言ったのは柳木先輩ですけど……」
 そうか、柳木だったか。でも今時みんなこれぐらいやってるって。第一、研究室にスキャナとOCRソフトと翻訳ソフトが有るってことは、やって下さいって言ってるようなもんだ。西澤はブツクサ言いながらも、スキャナを起ち上げて作業に取りかかった。
「このワザ、オレも今度使ってみて良いですか」
「別に特許出願したわけじゃあねえから勝手にしな」
 そんな感じで、西澤との共同作業が始まった。

「先輩! 学術用語が多すぎて翻訳が変です」
「ええ? じゃあ辞書引け、辞書」
「い、意味ねえ……」
 辞書も、普通の英和辞典ではなく専門の辞書がある。でもこの辞書は、どうも使いにくくってオレは嫌いだった。元々、辞書を引くという作業自体が嫌いなのだ。この億劫な作業を西澤に任せ、オレは本文に取りかかる。西澤の仕事はスムーズで、時々文句をたれながらも次々にこなしていった。
「じゃ、今度はこのデータ、グラフに直してくれ。折れ線ね」
 実はグラフを作る作業は好きなのだが、ここまで来ると好きも嫌いも言ってられない。簡素な数字だけのデータが、グラフによって視覚的に表れてくるのは気分の良いものだ。それによる新たな発見もある。
「色付きですか?」
「いや、モノクロで」
 今まで停滞していたものが、一気に進行する。片手で弁当を頬張りながら、オレは黙々と作業を進めていった。そう、集中力が続いているうちに、やれるだけやってしまわなければいけない。やる事がなくなると西澤は研究室の長椅子で仮眠を取り、起きるとまた色々と手伝ってくれた。勿論その間オレは寝ていない。何かもう気力だけでやっているような気がする。



 しかし、その集中力も丸一日経つと限界が来る。集中力と言うより体力の限界か。椅子に座っているだけでも苦痛になってきた。
丸一日研究室にいるオレに同情して、帰り際に山際さんがカロリーメイトの差し入れをしてくれたが、はっきり言ってもう見たくないくらい食べていた。
「け、結論が…文章がまとめられねえ……」
 オレはパソコンの前で頭を抱えた。このまま寝てしまいたい誘惑に駆られる。後は結論を書くだけになっていたが、どうしても文章を捻り出す事が出来ない。何を書くかは決まっているのに、それをどう繋げていっていいか判らないのだ。
「脳の限界だ…シナプスが半分ぐらい死滅してる」
「な、何弱気になってるんですか」
「もう無理……仮眠とる」
 ボソッとそう言うとオレはパソコンの前に突っ伏した。
「先輩、提出は明日ですよ」
 ああ、考えないようにしてたのに。提出は明日の正午までなんだ。突っ伏してるオレを西澤が乱暴に揺さぶる。
「仮眠なんて摂ったら、もう無理ですよ。諦めちゃダメですよ先輩」
 今度は肩を揺さぶられた。でももう起きる気力がない。頭もボーっとしてるし、こんな状態で文章なんて書けない。何かもう、どうしようもなく自分が情けなくなってきた。
「……何でも、簡単に諦めちまうオレは嫌いか、西澤」
「え?」
 ダメだ……もう、眠い。身体が言うことを聞かない。
 オレは睡魔に白旗を揚げてしまった。
「んな訳無いに決まってるじゃないですか……」
 頭を、撫でられているような気がした。何だかそれが凄く心地が良い。大きくて冷たい手。
でも普通こんな風に男の頭を撫でたりなんかしないよな。この手にはやっぱりそれなりの意味があるんだろうか。
 また、西澤が何か言っているような気がした。その手も、声も、少しヒンヤリとしていて心地が良かった。



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