フレームの曲がり方
第二話
「あんた相変わらず切羽詰まってんね~」
オレが推敲した実験データと睨み合いをしていると、同期の柳木が入ってきた。この研究室唯一の女だ。フェイクファーのコートがこの研究室に似合わなすぎて、何だか可笑しい。
「……そう言うお前はどうなんだよ」
「そうねー、こんな汚い研究室に籠らなくてもいい程度に進んでるよ」
柳木とは学部の頃から共同研究をしたりしていて、この研究室では割と懇意にしていた。でもこの言動からみても分かるように、この研究室に相応しいくらい女っ気がなかった。いや、見た目は一応普通に女らしいのだが、如何せん性格に難があった。
「じゃあ何でこんな汚ねえ研究室に来てるんだよ」
「あら、資料取りに来ただけよ。……何よ、その顔は」
かったるそうな顔をしたオレに向かって訳の分からない因縁を付けてくる。どんな顔しようとオレの自由だろうが。
「元々こういう顔なんだよ。ほっとけ」
「ふーん。そりゃ大変ね」
口が減らないってのはこういう奴のことを言うんだろうな。共同研究の時も悲惨だった。
「でも何でここでやってんの? 実験は一通り終わったんでしょ」
「うーん、家だと集中できないんだよな。多分寝ちまう」
「情けないなー。もっと気張らなアカンよ、気張らな」
そう言って柳木はオレの背中をドンと叩いた。思わず前に倒れそうになる。
「こんちはーっス。あれ、柳木先輩?」
オレが前につんのめっていると、西澤が入ってきた。手には弁当の袋がさがっている。
「あら、西澤君、どしたの?」
柳木の奴、俺と話すときとは全く声色が変わってやがる。確かに西澤は女にもてそうな感じだけど、そんなあからさまに態度変えるか、普通。
「柳木先輩こそ、珍しいじゃないすか。オレは弁当の差し入れ持って来たんです」
「えーっ、こんな奴の為に??」
うるせえな、オレは早く弁当が食いたいんだよ。
「先輩、ほっとくと根詰めて何も食べなそうだから……」
「いいのよ、ほっとけば。こいつ、変に糞真面目で凝り性だから、自分で自分の首締めてんのよ。適度に手を抜くってこと知らないんだから」
ああもう好き勝手言いやがって。オレだって自己管理ぐらい出来るぞ。何だと思ってるんだ。
「あ、確かに先輩、要領悪い所ありますよね」
「おい、西澤ァ……」
こいつ、絶対後輩としての自覚がない。オレは年下の奴に馬鹿にされるのだけは我慢ならないんだ。でもこいつは、オレが下から睨み付けても全く気が付いていないようだ。気付けよ。
しかも柳木がさらにそれに追い打ちをかけてきた。
「そうそう、この前の論文だって教授に代表著者取られちゃったでしょ。教授が興味示した時点で1st取られるの判りそうなもんなのに、あんなに一生懸命書いちゃって、要領悪いのよ、あんた」
「うっ……。そ、その話はするなっ」
ああ、思い出したくない事思い出させやがって。
「え、先輩、この前の論文、1stじゃなかったんですか?」
ほら見ろ、西澤にバレちまったじゃねーか。
1stってのは代表著者のことで、オレは修士のうちに国際誌に一報1stで出すのが目標だった。それを常々こいつに言ってきたので、正直、この事は知られたくなかった。国内誌だが、もう共著で論文は出しているし、とにかく1stが欲しかったんだ。
「あのなあ、アイディア出したのも、実験も、全部オレがやったんだ。しかもスブタの野郎、オレが一生懸命実験している間ずっとパソコンで三國志やってたんだぞ。『おい、この武将の知力っていくつだっけ?』とか訊いてきやがって。知らねえっつの」
そうなんだ。確かに教授からいろいろ指導は受けたが、基本的なアイディア出しは自分でやったし、実験やったのもオレ、論文書いたのもオレ、今にして思うと教授は妙に親切に指導してくれたような気がするが、横でいちゃもん付けたり、ダメ出ししたり、三國志やったり、とにかく大したことはしてないんだ。なのに奴が1st、オレが2nd。納得できない。確かにこの分野では奴は第一人者だが、こんな横暴が許されてたまるか。
ちなみにスブタってのはうちの教官のアダ名だ。須田教授というのだが、中肉中背なのに何故か皆からスブタと呼ばれていた。こんな奴ブタで充分だ、クソ。
「だーから、その論文は適当に手抜いてやっちゃって、他のに力入れればよかったじゃない。その辺のさじ加減がわかってないのよ。しかもマスターで1st取れなかったぐらいで進学諦めちゃうし。論文の投稿なんてドクター行ってからやればいいのよ」
ああこのおしゃべり女。オレは反論する気も萎えて、頭を抱え込んだ。
「えっ、先輩、ドクター行かないんですか!?」
突然、西澤が大きな声を上げてオレの顔を覗き込んできた。そんなビックリするようなことか?
「ああ、オレ就職組だよ」
「私も就職~」
訊かれてもいないのに柳木も答えた。確か化粧品会社だとか言っていたな。
すると突然、携帯の着メロが流れ出した。柳木のらしい。
「はい、何? ユウ君?」
柳木が電話している間、西澤は何か不満そうな顔でじーっとこちらを睨んでいた。何だよ。
「何で……言ってくれなかったんですか、進学しないって」
「だって別に、そんな大したことじゃないだろ。お前ずっと忙しそうだったし」
そうだ、こいつは院試とその後卒研でずっと忙しそうにしていたんだ。まあ就活組ほどでは無かったと思うが。
「大したことじゃないって……。でも、何度か顔合わせていたじゃないですか。何でその時に……」
西澤がそこまで言いかけたとき、柳木が電話を終えたらしくこちらに話しかけてきた。
「あ、じゃあ私はこの辺で帰るわね」
「何だ、男か。余裕だな」
一時期こっぴどくフラれて、暫く男はいらない、なんて言っていた柳木だったが、二・三ヶ月前に男が出来たらしい。しかも年下だという噂だ。
「ふふふ……さあね」
謎の微笑みを残して柳木が研究室を後にした。クソ、余裕だな。
騒がしいのがいなくなって、突然部屋の中がシーンと静まりかえった。ちょっと、気まずい。西澤は相変わらず不満そうにこっちをじーっと睨んでいる。
「な、なあ、折角弁当買ってきてくれたんだし、食わないか?」
オレは気まずい雰囲気をどうにかしようと、ビニール袋から弁当を取り出しながら西澤に声をかけた。すると奴は、視線を下に落として呟いた。
「……オレ、先輩がドクター行くと思って、進学決めたのに」
そんなこと、オレに言われても。でも、いつも元気そうなこいつにも、こんな表情することがあるんだな。いつもの余裕はどこに行ったんだと言いたくなるくらい、小さな子供みたいな顔をしていた。
「そりゃ、オレ達が卒業したら、スブタ研にはロクなの残ってないけどさ。ほら、山際さんもいるし、それにあと、うちの一つ下の古関は割とマトモな奴じゃなかったか」
「そんな事じゃないんです」
オレの何の足しにもならなそうな慰めの言葉を、西澤の言葉が遮った。
「先輩、ドクター行くって言ってたじゃないですか。どうしてそんな簡単に辞めちゃうんですか」
「どうしてって……。適当に決めた訳じゃあねえぞ、別に」
何だか喧嘩腰になってきた。でも真剣な表情を見ると気後れしてしまい、正直こいつとはあまり言い争いなどしたくなかった。
「目標だった国際誌で1stとれなくて、ふてくされて就職に逃げたんじゃないんですか。どうせ先輩なら推薦枠余裕でしょ」
「……あのなあ、進学より就職の方が大変なんだぞ、今は」
段々腹が立ってきた。何でこいつにこんな事まで言われなきゃいけないんだ。
「一回挫折したぐらいで、ずっと研究していく自信なくなったんですか? そんな風に簡単に諦められるもんなんですか?」
「うるせえな、お前には関係ないだろ!」
オレは激昂のあまり、手元にあった学術雑誌を机に叩き付けた。いつも真っ直ぐ見つめてくる西澤の視線が、下に落ちている。オレはとにかく苛立たしくてしょうがなくって、西澤の脇を抜けて研究室を出ようとした。
途端に、思いっきり肩を掴まれた。痛いくらいに。
「何す………ん……っ」
オレが抗議の声を上げる間もなく、西澤の顔が近付いて来た。いや、近付いて来ただけではなくて。
唇を塞がれていた。
オレは何が起こったか理解できず、その場で硬直していた。冷たい西澤の鼻の頭が俺の鼻に当たっている。多分今、息が出来ていない。
唇が濡れた感触がした。硬直しているオレの唇をそれは割って入って、舌先に触れた。
その、触れた感覚にオレはビクンと身体を震わせ、我に返った。思わず西澤の腕を振り払って、後ずさりする。
「痛ッ」
後ずさりした先に椅子の足があって、オレは足を思いっ切りぶつけてしまった。足を押さえながらその場で屈み込む。小指に当たるのは滅茶苦茶痛いんだ。
「……あっ、せ、先輩、大丈夫ですか」
大丈夫じゃあねえよ。いや、大丈夫とかいう問題じゃあなくて、
「す、すいません……。あの、オレ……、その、何て言うか、……ずっと、オレ、先輩のこと……好きでした」
オレは屈み込んだまま、ただ呆然と西澤を見上げた。
「ずっと側で……先輩と一緒に研究できればそれでいいって、そう思ってたんですけど……でも、先輩、就職するって言うし、もう逢えなくなるのかと思ったら……オレ……」
こんなにオロオロしている西澤なんて初めて見る。オレは阿呆みたいに口を開けたまま、狼狽している西澤に見入っていた。なんて言うか、思考が停止していた。
「すいません……オレ、こんな事……。本当に、すいませんでした」
西澤は一瞬、俺の目をじっと見つめたかと思うと勢いよく頭を下げ、そのまま踵を返して研究室を後にした。少し、乱暴にドアを閉めていったような気がする。
残されたオレはその場でただ呆然としていた。
立ち上がるとき間抜けにもまた同じ椅子に身体をぶつけ、我ながらその動揺っぷりに呆れる。
そして机の上に置かれた二人分の弁当を見て、どうしていいか判らずその場で立ち尽くしてしまった。蓋をちょっと開けると、中に唐揚げがたくさん入っているのが見えた。一番安いのでいいって言ったのにな。
さっきぶつけた足と、少し触れられた舌の先が、じんと熱く痺れていた。