理由

第五話


 あれからどうやって、このいつもの帰り道まで来たのか覚えていない。別に酔っているわけではないのだけれど。
「お~い、何怒ってんだよ」
 何度目かの伊能の呼びかけ。僕はさっきから、「別に」とか「何でもない」とだけ答えて、それ以上口を開かなかった。何でもない訳がない。でも、口を開いたら最後、何を言い出すか怖かったんだ。
「あ~、ひょっとして、あの子の携帯の番号聞きそびれたの、怒ってんの?」
「……違うよ」
 伊能が見当違いなことを言う度に、僕は冷たく答えてしまう。覚えていない、というのは正確じゃない。僕はあの話を、頭から追いやってしまいたかったんだ。でも、そんな事出来る訳がなかった。遂に僕は口を開いてしまった。
「あの話、本当なのかよ」
「あの話って?」
 今更すっとぼけるなよ! と言いたくなるのを僕はぐっと抑えて、なるべく素っ気ない風を裝った。
「携帯持っていないワケ」
「ああ~」
 多少大袈裟に伊能が頭を抱えた。
「だからあれは、仕方なかったんだって……」
「二股かけるのが仕方ないのかよ」
「あー、だから違うって! あのなあ、女の子に告られるなんて、宝クジに当たるようなモンなんだぞ? それが二回もされてみろ、誰だって混乱するだろ?」
「じゃあ、初めの子に気がありそうな返事しときながら、後からの子を断りきれなかったのは仕方ないってのか」
 思わず冷たく言い放ってしまう。そりゃ、僕だってきっとそんな状況に陥ったら混乱するだろうけど、今の僕には彼に同情する余地なんて持ち合わせていなかった。
「だって~、後からの子の方が可愛かったんだよなあ」
「はあ? お前アホか!?」
「そんな力一杯アホって言うなよ」
「アホだよ、本当、何考えてんだ、信じられねえ」
 段々語気が荒くなってくる。でも、これって僕がそんなに怒るようなことか? 男だったら伊能の気持ちはよく判る。目の前のモノには弱いもんだし、どんな風に女の子と付き合おうと、それは彼の自由だ。
 それなのに、僕はそんな彼に対して呆れるどころか、自分のことのようにショックを受け、どうしようもなく腹を立てている。
「だってさ、俺、よく考えて女の子と付き合ったことなんか無いもんなあ」
「考えろよ! 自業自得もいいところだよ、本当」
 結局、どういった経緯かで告白してきた子が事の次第を知っていまい、伊能は根深い恨みを買うことになったのだが、これはもう自業自得以外の何者でもないだろう。答えを保留するにしろ何にしろ、さっさと決着を付けなかった彼が悪い。元々そんな器用な真似が出来る性格ではないのだから。
「そうそう、お陰で携帯持ってるとロクな事がない、というのがよく判ったよ」
「何でそうなるんだよ!」
 でも僕は、彼がそのことを大して気に病んでいる様子もないのに憤慨すると同時に、何故かホッとしていた。
 彼が、そのどちらかの子に未練たらたらだったら、きっと僕はこんな風に怒るどころじゃなかっただろう。もしそうだったら、僕はどうしただろう?
 僕の目の前を、細い雨が落ちてきた。細い雨は、地面に落ちて小さな染みを作った。伊能のTシャツにも、小さな染みを作る。僕の眼の中にも、入ってくる。
「うわ、結構降ってきたな」
 春の夕立とは違う、細いけれど重い雨。そうだ、もう梅雨なんだ。
「早く帰ろ」
 夜中の雨雲を見上げて伊能が言った言葉に、僕はそれまでの怒りが、段々強くなってくる雨に溶けてしまうのを感じた。
「……うん」
 そう言えば、彼と初めて会ったときも、雨が降っていた。暖かい雨だった。戸惑いつつも握手をしたあの日から、彼がこうやって「帰ろう」と言ってくれることが、僕にとって大切なことになった。
 あの話にショックを受けたのは、それが崩れてしまうんじゃないかと恐れたからだ。もし伊能に彼女が出来たりしたら、僕達の関係はどう考えても変わってしまうだろう。今までその可能性を考えたことがない訳じゃないが、さっきの話でそれが、妙に現実味を帯びたものとして僕に突き付けられたような気がしたのだ。
 細い雨が、僕の視界を覆う。空気が少しずつ冷たくなってくる。
 僕のシャツもすっかり雨で濡れて、横で伊能が「びっしょりだな」と言って笑った。雨なんて全く気にしていないみたいに。
 そしてまた、僕は理由を考えてしまう。僕は何故、二人だけの帰り道をそんなに大切にするんだろう。どうして、誰にも取られたくないと、思ってしまうんだろう。



 僕は最近、バイトを始めた。切ない仕送りの額でやりくりできるわけはないので、本当はすぐにでも始めなければならなかったのだが、何だかんだでこんな時期になってしまった。隣町の小さな学習塾の講師だ。あまり子供は好きじゃないが、働ける時間と月々稼がなければいけない額をを見比べて、ここに落ち着いたのだった。
「北原君、今度から一年の英語も受け持ってくれるかな? 毎週火曜の一時間だけなんだけど」
 この学習塾の経営者兼塾長の合田さんが、授業の後、僕に遠慮がちに訊いてきた。中年の、ちょっと髪の毛が心許ない感じだけど、気の良い人だ。
「ええ、受験英語だったら……」
「あ、いやいや、英会話とかじゃないから。一人、ほら、中島さんがね、辞めちゃってさ。北原君、頭良いから大丈夫だと思って」
 僕はここで中学三年生、つまり高校受験生の国語と社会を受け持っていた。これでさらに一年生の英語まで増えたら結構大変そうだ。そのうち全教科やらされそうでちょっと怖い。でもやっぱりお金は欲しいわけで。
「これ、テキストね。こっちがマニュアル。来週から、頼むね」
 この学習塾は補習がメインで、少人数制。それ程厳しい訳ではないが、事前にこちらも予習はしておかないといけないし、三教科掛け持ちは大変そうだ。
 安請け合いしてしまったかな、とちょっと後悔したが、今は忙しい方がいいんだと思い直した。時間があると、色々考えてしまうから。


 寮に帰ってから僕は、さっきもらった英語のテキストを机に広げた。英語は割と得意な方だったから問題はないと思うけど、自分が勉強するのと人に教えるのとではやはり違って、また一段上の理解が必要になってくる。主に古文を教えている国語も結構四苦八苦しているので、頭がこんがらがってしまいそうだ。
 椅子にもたれ掛かって、テキストを眺めているとそこへ、ドアをノックする音が聞こえてきた。こんな時間に誰だ? と思いつつも、ノックの仕方ですぐに誰だか判った。ドアが薄いから、爪を立ててカタカタ鳴らすんだ。
「何だよ、こんな時間に」
 ドアを開けると、そこに居たのは予想通り、伊能だった。彼もおそらくバイト帰りだろう。少し大きめのビニール袋を手から下げている。
「どーせ起きてんだろ?」
 いつも通りの笑顔。実は、彼と会うのは結構久しぶりだった。
 と言っても、すぐ隣だから毎日顔を合わせてはいたが、以前ほど長い時間一緒にいることはなかった。バイトを始めてから僕は忙しさを理由に、少し彼との距離をとっていたから。それなのに、いつも通りの彼の笑顔を見るとホッとしてしまう。
「まあ、そうだけど……。その持ってるの、何?」
「へっへっへ……これからジャッキー・チェン大会を開催する!」
「はあ!?」
 伊能が得意げにビニール袋から取り出したのは、たくさんのビデオだった。僕は呆気に取られてそれを見ている。何考えているんだ?
「うーんとね、古いモノから順にジャッキー・チェンの映画を観ようという大会なんだな」
「ま、待てよ、何で僕ん家でやるんだよ」
「前さ、高橋ん家でブルース・リー大会やったら途中で飽きてダレちゃったからさ。で、今回はジャッキー・チェン大会やるの」
 こんな調子で彼特有の滅茶苦茶な理論を展開されると、いつも僕はそれに振り回されて、いつの間にか納得させられてしまうんだ。
 もう既に彼はずかずかと部屋に上がり込んで、ペットボトルのお茶を飲みながらくつろいでしまっている。以前は、彼のそんな突飛な行動を何とも思っていなかったのに、今日に限って僕はそれに戸惑っていた。
「あれ、北原勉強してんの? あ、塾講してるんだっけか」
 机の上に広げたテキストを、伊能は物珍しそうに見ている。中学生用のだから余計珍しいんだろう。
「ガキ相手に勉強教えてんのかー。すげーなあ。北原が先生やってるとこ俺見たい」
「ば、馬鹿言うな」
 伊能はこういうことを言い出したらきかない性格だ。だから僕は、どこでバイトをしているのかをひた隠しにしていた。はじめは塾の講師をしていることも隠していたんだ。これはすぐにバレてしまったけど。
「えー見たい見たい。じゃあこっそり見に行くから」
「こっそりでも駄目! ほら、ビデオ観るんじゃあなかったのかよ」
 このままではマズイと思った僕は、慌てて話題を逸らせた。でもよく考えたら、ビデオを見るのもあまり乗り気ではなかったはずだ。ああもう、伊能のペースに乗せられてしまっている。
「そうだそうだ。ビデオセットしなくちゃ。えーっと……」
「おい、本当にこんなに観るのかよ」
「うん、続けて観るのがおもろいんだよ。古いのから順に観ると、ジャッキー・チェンの鼻が段々デカくなるのがよくわかる」
「マ、マジで?」
 結局僕達は、馬鹿みたいに一晩中ビデオを観ていた。確かに次の日は休みだし別に構わないのだけれど、何だかこういうのは久しぶりで、楽しいはずなのに僕は何故が気が散ってしょうがなかった。
 塾の講師のバイトの事を最初黙っていたことや、忙しさを理由にあまり会わないようにしていたこと。僕にとっては結構大きな事だったのに、伊能はあまり気にしていないようで、それが悔しかった。何故突然そんなに忙しくなったのかと、聞いてきて欲しかった。
「あ、何か外が明るい」
 もう何本観たか数えるのも面倒になってきた頃、ふと外を見た伊能が眠そうな眼を擦りながら呟いた。僕もちょっとウトウトしかけていた。
「そろそろ寝ようよ。僕眠いし」
「うーん、そうだな~。寝るかー」
 伊能はそう言うと立ち上がり、その辺に散らばったビデオを片付け始めた。まだ半分くらいしか観ていないので、残りは後日ということになった。レンタル期間があるから、おそらく全部観ることは出来ないだろう。もうちょっと考えて借りればいいのに。
 一通り片付け終わり、伊能は欠伸を一つすると、軽く手を振って部屋を出て行った。
「じゃ、またな」
 僕の眠たい目に映ったのは、彼の背中だった。何の躊躇いもなく、僕の部屋を後にする。僕には、彼を呼び止める理由がない。すぐ隣なんだから、眠くなったら自分のベッドで寝ればいい。それだけのことだ。ドアの閉まる音が、遠くから聞こえる。
 僕は彼との時間を大切に思うあまり、一緒にいることを避けるようになってしまった。
 そんな風に大切にしているのは自分だけで、彼にとっては取るに足らないことなんだということを、目の当たりにするのが怖かったんだ。でも今、僕はそれを嫌と言うほど感じていた。ずっと自分の気持ちに気付かないふりをしてきた代償が、目に映った彼の背中と共に、僕を苛んだ。
 あの雨の日、誰にも取られたくないと思っていたのは、帰り道だけではなかったんだ。



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