掠れた靴音、そして

第一話


 ドアが開いて、閉まる。閉じこめられた車内の人々はそれぞれ周囲の人間には目もくれず、自分の世界に没頭している。携帯電話を弄る人、本の頁を捲る人、新聞を折りたたむ人、中吊り広告に目を遣る人、眠る人……。その中で吉野は、自分の世界ではなく別の世界を覗いていた。
『……ご乗車ありがとうございます。車内での携帯電話の……ご遠慮ください。また混雑時には、医療機器への……恐れもありますので電源をお切り頂くようお願い致します……』
 スピーカー越しに聞こえる彼の声は、自分が知っているものと随分違って、低く歪んだエフェクトがかかって少々聴き取りづらい。この車内にいる人々は、本当の彼の声は少し高くて、語尾を短く切ってはっきりと喋るのを誰も知らないだろう。

 仕事帰りの電車の中で吉野は、車両の最後尾にある車掌室を覗き込んでいた。そこにいるのは自分のよく知っている人だったが、吉野の知らない世界にいた。制服姿は幾度となく見たことがある。しかし、車両に乗り込み黙々と仕事をこなす彼の姿は新鮮で、乗務員室の窓に寄りかかりながらしきりに目で追ってしまう。
『……鉄道をご利用頂きましてありがとうございます。急行の……行きでございます。次の停車駅は………。出口は左側に変わります……』
 制服の白いシャツから伸びる骨張った長い腕、上背のある後ろ姿。帽子を深くかぶり、俯き加減にアナウンスをする。停車するとホームに降りて、前後の安全確認をし、また車両に乗り込む。その動作一つ一つが機械的で無駄がない。吉野は、このガラス窓の向こうに見える後ろ姿は自分のものなのだと叫びたい衝動に駆られる。
 彼の方はと言うと、初め車内に吉野がいるのを見て面食らっていたが、すぐに表情を元に戻すと、それからはずっといないもののように見向きもしなかった。今も車内の方には決して顔を向けない。きっと照れているのだろう。
 吉野の隣で子供が乗務員室の計器類を物珍しそうに覗き込んでいる。吉野は、同じように並んで覗き込んでいる自分が、酷く無邪気に思えるのだった。



「何怒ってんだよ」
 ずっと黙ってソファーに寄りかかっている掛川に、吉野はついに痺れを切らして声を掛けた。今日、折り入って話すことがあるのに、これでは話どころではない。
「そんなに怒るようなことか? おい」
 ゆさゆさと揺すっても何の反応も示さない。長身の掛川はソファーからたっぷりと足がはみ出ていて、強く揺さぶるとずり落ちそうになる。それでも頑なに姿勢を崩さず、吉野の方に振り返ろうとはしない。
「別にいいだろ、仕事の邪魔したわけじゃないし」
「邪魔」
 そう一言吐き捨てると、またそっぽを向いてしまった。その態度に腹を据えかねた吉野は、さらに荒っぽく掛川を揺さぶった。
「何だよ何が気に入らないんだよ、今日は本当に偶然だったんだってば。初めて会ったときだって仕事中だったじゃないか」
 そう言えば、付き合い始めてからは勤務中の掛川と会うことはまず無かった。すぐに駅勤務から車両勤務に変わってしまったからだ。吉野は今日初めて、仕事帰りに彼の乗務している車両に乗ったのだ。本当は終点までずっとついて行ってみたかったのだが、さすがにそれは気が引けたのでやめておいた。この掛川の反応を見ると、その判断は賢明だったようだ。
「あのな、だからってずーっと窓に張り付いてることないだろ!?」
「だあって珍しかったから」
「気が散って仕事になりゃあしねえ」
 不貞腐れて広い背中越しに怒鳴りつける掛川に、吉野は思わず笑いが込み上げてきた。大きいナリして態度は子供っぽい。いや、普段落ち着いている彼が、こんなことでつむじを曲げているのが可笑しいのだ。
「な、何笑ってんだよ!?」
「だってさー、お前……ソファから落ちそう」
「……落ちねえよ」
 ここは年上の余裕を見せてこちらが一歩譲った方がいいだろう、と吉野はまだ背中を向けている掛川にちょこんと乗りかかって、頭を下げた。
「俺が悪かったよ、そんなに怒るとは思わなかったんだ。今日は俺が夕飯作るから許して」
「ちょっ、それは困る」
「何で困るんだ?」
 慌てて起き上がった掛川は、乗っかっていた吉野をソファーに座り直させた。
「とにかく困るんだ。吉野さんはそこで座って待ってて」
 そう言ってさっさと台所に向かって行ってしまった。吉野はいまいち納得出来ずに、ソファーに寝転んでその後ろ姿を見つめる。あのとき、ガラス窓越しに見つめたのと同じ後ろ姿だった。



 ……学生時代からの付き合いの年代物のソファは、このところの重量超過のためか、動く度にギシギシと酷く軋むようになってきた。早く新しいものに買い換えたい。今度はこんな安物ではなく、もっと大きくて座り心地が良くてスッキリしたデザインの……でもそんな大きなソファを入れるには広い部屋が必要なわけで……ああそうだ、自分はその話を切り出すきっかけを探しているんだった。さっきから思考が堂々巡りをしている。
「吉野さん、ビールいる?」
「いや……いい」
 ずっと付けっぱなしのTVは野球中継を映している。ピッチャー振りかぶって……一塁に牽制。そうだ、このピッチャーが三振を取ったら言い出そう。
「じゃあ焼酎?」
「いらない」
 あ、打たれた。幸い一塁ゴロでアウト……って、3アウトでチェンジじゃないか。くそ、次の回まで持ち越しになっちまった。さっき三振を取ったら言い出そうと決心したばかりのなのにどうしてくれるんだ。
「何だよ、付き合い悪いな」
「今飲む気分じゃないんだ」
 大人しく次の回まで待つことにする。3アウトぐらい早く取れよ。決心が鈍っちまう。
「スーパードライ無くなるぞ」
「別にいいよ」
 ああやっと四回の裏が終わった。解説がピッチャーに駄目出しをしている。どうでもいいから早く投げろよ。
「吉野さんが野球熱心に見てるなんて珍しいな」
 別に野球を熱心に見ている訳じゃない。ただ、自分で決心出来ないからこのピッチャーに勝手に頼っているんだ。
「じゃあ俺、明日朝早いからもう寝るわ」
「えっ」
 掛川の言葉で吉野は急に現実に引き戻された。
「ちょ、ちょっと待って」
 慌ててTVから目を離して掛川の方に振り返る。まだピッチャーは三振どころか3ボールで追い込まれている。結局ピッチャーがどんなに頑張っても、吉野の期待には応えられそうになかった。
「何?」
「……あ、その」
 今日は掛川が早く寝るのは分かっていた。それなのに、なかなか言い出せず今まできてしまった。そしてこの機会を逃すと、次は来週まで持ち越しになってしまう。二人が共有出来る時間は限られているのだ。
「さっきからどうしたんだ? 吉野さん」
「あ…、あのさ」
 この前も、さらにその前も、何だかんだと自分に言い訳しながら結局何も言い出せないでいた。今日もそうだ、何の関係もないピッチャーに言い訳を押しつけている。
「今度俺、昇格するんだ。だから少し給料上がるんで……、その、もっと広い部屋借りようと思ってて……」
「へえ、そりゃいいじゃないか」
 駄目だ、違う、こんなところで言葉を止めちゃ駄目だ。吉野は、いつも失敗を怖がって結局何も出来ないでいる自分から抜け出そうと藻掻いていた。
「それで、その……一緒に、住まないか?」
「え?」
 キョトンとした顔で掛川は吉野を見返した。ズッと吉野の中に悪い予感が走る。
「あ、駄目ならいいんだ、お前は社員寮があるし……、職場から離れたら不便になるよな、寮の方が色々と便利だろうし……忙しいから引っ越しなんかしてる暇もないよな。一人の方がやっぱ気軽だし、それに俺、家事とか料理とか全然出来ないし……」
「おい」
 一気にそう捲し立てる吉野を、掛川が一声で遮った。掛川の呆れた表情に、吉野は不安を掻き立てられる。
 お互い休日がなかなか合わないせいもあり、かねてから一緒に住みたいと思っていた吉野は、先日、珍しく酒の席に誘ってきた部長に昇進の話を聞かされ、益々その思いが強くなった。
 だが、掛川もそう思っているのかどうか、確かめるのが怖かった。仕事などの様々な事情によるものであったとしても、掛川の口からハッキリと断られてしまったら、吉野は立ち直れないような気さえしていた。
「何で俺の断る理由を吉野さんが先に全部言っちゃうんだよ」
「えっ」
 突然身体を引き寄せられた。目の前にあるのは、やはり呆れたような表情の掛川の顔。
「俺にはどうしたって断る理由なんか見つからないね」
 そう言いながらゆっくりと唇を奪われた。吉野は広い背中に腕を回しながら、この体温を失いたくないとじっと願っていた。



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