心もよう 空もよう

第一話


 鞄を開けたら何も入っていなかった。
 空の鞄をわざわざ家から一時間かけて持って来たのか。財布と定期はポケットに入っているし、忘れたのは携帯電話か。空の鞄はふてくされたようにあんぐりと口を開いて、その所々綻んだ内臓を見せていた。
 だからと言って鞄が空でも別に困ることは無かった。家に仕事を持って帰らなくて済むように残業しているんだし、そもそも家に持って帰るような仕事はしていない。
 となると、何故自分が鞄を持ち歩いているのか不思議になった。ただ手ぶらは不自然だからというだけだろうか。確かにスーツに手ぶらは不自然だ。だがそれを言ったら切りが無いような気がする。

「あー、松永君」
 空の鞄をデスクに置くなり課長に呼び止められた。
「月曜の会議で言ってた件だがね」
「あ、その相見積もりならこちらで……」
 そう言いかけて立ち上がろうとする松永を、課長は手振りで抑えると、
「いや、その件、二岡君に頼むことになったんだ。工事自体の規模は小さいからね。君は清掃センターの方に専念しててくれ」
 松永の真っ直ぐな視線を避けるように、課長は必要もないのにブラインドの紐を引っ張ったり伸ばしたりしている。松永はそんな課長の言葉に「はい、判りました」と、短く返事をすると、パソコンを立ち上げて仕事の準備に取り掛かった。日下部市清掃センター建設事業は、確かに松永が今まで関わった事業の中で一番規模の大きなものだったが、月曜の会議で出ていた養護施設の改装工事も決して小さい仕事ではない。
 会社に着いたばかりなのに喉が渇いている。オフィス内の効きすぎてるエアコンの所為だろうか。ブラインドの隙間から縞模様に見える空を眺めながら、松永は、会社での自分の立場の微妙さに思いを馳せる。



 川上主査に連れられ、都内の料亭『白科』に行ったのは、秋が深まり始めた十月下旬頃のことであった。この界隈では一流とは言えないが、小ぢんまりとした作りがかえって落ち着くようで、なかなか盛況な様子だった。
 招待されたのは、『蓮田』と言う、面長の、年の割に些か頭髪が薄くなっている神経質そうな男であった。松永は川上主査からこの男を紹介され、名刺を交換した。『(株)ケイシーエス』という、あまり聞き慣れない企業名だった。しかし川上主査は、今まで接待した客の中でも特に恭しい態度でその客を招き入れていた。
 女中達が料理を運んでくる。一等地なだけに女中達はどれも粒揃いで、料理もなかなか、接待には持ってこいの店であった。小ぢんまりとした室内には、質素な生け花と、気に留める程でもない掛け軸が飾られ、下ろし立ての畳の匂いがしていた。
 これと言って込み入った話をする訳でもなく、取り留めのない世間話をし、女中達を冷やかし、出された料理にさも知った風に舌鼓を打つ。接待とはこういう退屈なものだと判っていはいたが、この日は特に退屈の極みであった。川上主査の口の上手さとは反対に、『蓮田』はどうも口下手で、卑屈な相槌を打っては場を白けさせていた。それを取り持つのも松永の仕事で、時折女中が気を効かせて茶々を入れてくれるのがせめてもの救いであった。

 松永は小用に立ったとき、ふと通りかかった係りの女中を呼び止めた。
「あのお客さん、よく来るの」
 女中はこの商売独特の愛想のいい笑いを浮かべると、
「さあ、川上さんにはえらいご贔屓にして頂いておりますけども」
 その女中の話によると、川上主査はこの時勢にも関わらず、随分金離れが良いようだった。他の従業員の様子からして、おそらくこの料亭では上客の内に入るのだろう。あまり詳しくは話してくれなかったが、連れてくる客は今回の客以外にも居るらしい。
「あなたみたいなお若い方は、あまりお見えにならないわね」
 そう言って袖を引っ張られた。慌てて腕を引いた松永を見て、ころころと笑い、軽く会釈をすると奥に引っ込んで行ってしまった。上手く話を切り上げられたのだった。


 それから数ヶ月後、日下部市清掃センター建設事業の落札が三回の入札を経て松永の会社に決まった。松永は初めての大事業の落札に、思わず心躍らされたのだった。



 空の鞄を持ち歩くようになって、数日が過ぎた。何も入っていないというのに、時折鞄はその重さを主張する。特に週末近くなると酷い。微妙な重さ故の鬱陶しさがある。それでも、何かを入れる気にはならなかった。空の鞄を手放さない自分に内心苦笑しながら、今朝も職場に向かう。
 最近、通勤風景に少し変化が起きた。松永が利用している駅に、毎朝托鉢僧が立つようになったのだ。
 何故、こんな大して利用客もないJRの片隅の駅に立っているのか、不思議だった。乗り換えのときに通る都内の駅には時々立っているのを見掛けるが、こんな寂れた駅では珍しい。居辛くはないのだろうか。
 網代笠を深く被り、身じろぎ一つしない。朝の通勤客の、排水溝に流れる汚水のような流れの中で、浮いている訳でもなく、馴染んでいる訳でもなく、ただそこに居るだけだった。履いている白足袋は足元が酷く薄汚れていて、法衣や袈裟行李もへたりとしていて些かくたびれている。そんなものだから、眼の端に映る普段の通勤風景の変化は、ごく僅かなものだった。松永は、他の通勤客と同じように、時折気に掛けながら、それでも横目で見遣る程度に、その場を通り過ぎる。
 ふと、駅の階段の上から見下ろしたら、その托鉢僧の鉢の中も空だった。



「それで、私用で市役所に行ったんです」
 会社帰りに寄った居酒屋で、松永の言葉に先輩の飯野はうーんと唸った。
「そこに居たのか、『蓮田』が」
「そうです」
 飯野は、松永が入社した当時から良くしてくれた先輩で、昇進して別の課に異動した今でもよくこうやって飲みに行ったりしていた。お互い課が違う所為だろうか、以前より気易く酒の席で突っ込んだ仕事の話をするようになっていた。
「俺が普通に、『その節はどうも』って挨拶をしたら、妙に気不味そうでしてね。それ以上何も話はしていません。その時は、この人も市役所に用があったのか、とその程度に考えていたんですが、気になりましてね。貰った名刺に書いてあった『(株)ケイシーエス』について調べてみたんです」
「何か判ったのか」
「三セクだったんです。日下部市の」
 再び飯野がうーんと唸った。唸りながらもつまみの串焼きはしっかり平らげている。
「やっぱり清掃センター建設と関係有るのか」
「それは今調査中です。状況証拠だけでは何とも……。でも、目が合ったときの狼狽振りからして、まさか俺が日下部市民だとは思わなかったんでしょうね」
「そうだ、俺も今聞いて初めて知ったよ」
「川上主査もそうだと思います。何かパッとしない市ですからね」
 そう言って松永は気の抜け切ったビールを飲み干した。苦みばかりが口の中に残る。
「料亭に連れられて行ったときは、同業者の人だと思っていたんです。今までもそう言うのはよくありましたし」
「談合だカルテルだってのはまあこの業界には付きモンだからな」
「俺も初めての入札の時は、他の指名業者の入札価格暗記してましたからね」
 一頻り笑った後、新たに飯野が注文した鳥の唐揚げのみぞれ煮がやって来た。飯野はそれを嬉しそうに頬張る。
「あの、飯野さん、ちょっと食い過ぎじゃないですか?」
「いいの、いいの、食わなきゃやってられねえもんな」
 まあ確かに、と松永も唐揚げに箸を付ける。料亭で気を使いながら食べる高級懐石より、こういう所の味の濃い唐揚げの方がよっぽど美味い。
「しかし何だ、調べるっつっても……、うちの会社なんか内側から崩したらかなり脆そうなモンだけど、油断はしない方がいいぞ。特に役所関係は」
「はい、慎重にやっていくつもりです」
「うん、あんまりバックがデカそうだったら、手は出さない方が良い。何事も引き際が肝心だよ」
 何度も頷きながら、あっと言う間に唐揚げを平らげた飯野は、今度はビールジョッキとイカの一夜干しを注文し、こっちの引き際は肝心じゃあないのかなあと松永は思った。



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