そんな月末

第一話


 二人はいつも週末に、地下街の喫茶店で待ち合わせることにしている。
 椅子は堅いし店内に流れる音楽の趣味は悪いしコーヒーも当たりハズレが激しいし、とても良いとは言えない店だったが、大昔さぞや美人だったであろう老婆のマスターは客が何しようとも気にも留めず、注文が来るまで老眼鏡越しに本を読んでいるし、男二人で待ち合わせるにはこの夜遅くまでやってる寂れた喫茶店は丁度良かった。
「佳輔、遅いぃ~っ」
「残業だってメールしただろ」
 あまり美味くもないコーヒーを何杯も飲んだ崇史は、苛立たしげにテーブルを揺さぶった。
「そんな怒るな、俺はな、毎日定時に退社できるお前とは違うの」
「俺だって残業してるっての! 佳輔の会社、毎日五、六時間も残業させるなんておかしいぃ~っ」
「いや、帰れただけマシだと思うけどな」
「ああもう~っ、この仕事人間!」
 さほど疲れた表情も見せない佳輔に、その情熱を自分にも注げ! と崇史は思ったが、絶対嫌だと言われそうなのでやめておいた。


 ここのコーヒーは当たりハズレが激しいのだが、 崇史はここ二杯ほどハズレているので今度こそはと、佳輔が注文するときに一緒にもう一杯頼んでしまった。老婆のマスターが優雅な手付きでコーヒーカップを順にテーブルに置く。
「……で、カードの引き落としが十日にあった訳よ」
「何買ったんだ」
「コンポ」
 コーヒーを口に運ぶ。見事にハズレだった。まずいと感じるのはきっと、ブレンドコーヒーのはずなのに味が薄いからだ。
「お前、クソアイドル聴くのにそんな高ぇコンポ買ったのか」
「クソアイドルなんて言うなよ~っ、そりゃ佳輔みたいにジャズとか聴かないけどさあ」
「まあ、そんなんどうでもいいよ。高音質で下手な歌でも聴いてろや。で?」
 いくら何でもそこまで言わなくても、と崇史は落ち込みそうになったが、ぐっと堪えて話を続けた。
「んでさ、昨日銀行のATMに金下ろしに行ったのよ」
 そう言うと崇史はコーヒーにミルクをどぼどぼと注いだ。薄いコーヒーも、ミルクを沢山入れたら美味しいような気がしてきて、崇史は我ながら味覚が曖昧だなあと思った。
「そしたらさ、二千円しか入ってなかった」
「ふーん。……え?」
 佳輔は、飲みかけていたコーヒーを思わず気管に入れてしまいそうになって、それをぐっと飲み込んだ。
「だから、今月俺、二千円で生活しないといけないの」
 彼にしてはとても真面目な顔で、力強く崇史はそう言った。
「ど、どうやって??」
「えへへ~」
 あの、甘ったれた笑顔を見せると、崇史は自分の荷物を示して見せた。
「だから、給料日まで佳輔んとこ泊めて」
「絶対嫌だ!」
 間髪を入れず佳輔は叫ぶ。
「誰が、お前みたいなだらしない奴と……、ん? おい、これ……」
「だって、小鉄、俺が居ないと生きていけないもん」
 崇史が示した荷物、それは猫の入ったカゴだった。小さく開いた窓から覗き込むと、不機嫌そうにふてくされて丸くなっている虎縞の毛玉が居た。
「実は、金がないのにはもういっこ訳があって……。小鉄の去勢手術したからなんだよね」
「えっ」
 飲みかけていたコーヒーを再び気管に入れそうになった佳輔は、今度はさすがに咳き込んでしまった。
「きょ、去勢って……タマ、とったのか」
「うん、サカリがついてきて部屋中暴れ回って滅茶苦茶にするもんだから、獣医さんに勧められて……」
「この人でなし!」
「うわー、俺だって好きでやった訳じゃないよう~」
 確かにこの前、崇史の部屋に行ったとき、壁紙も襖も全て破れていたことを思い出す。サカリのついた猫が暴れるのは仕方のないことだ。やっぱりこいつ、野良でいた方が幸せだったんだ、と不憫に思えて、佳輔はもう一度カゴの中を覗き込んだ。
「お前……、アントニオって名前だったらタマ一個で済んだかもしれないのに……」
 駄目だ、泣けてきた。と言うより痛くなってきた。
「タマ一個じゃ歩きにくいっしょ」
「そう言う問題じゃねえ、男としての問題だろうが、この、鬼、悪魔」
「毎日生傷作られる俺の身にもなってよ~。……とにかく、佳輔お願い、ね?」
 顔の前で手を合わせる上目遣いの崇史に、佳輔は心底嫌そうに溜息を吐いた。
「お前だけじゃなく猫の面倒まで看なきゃいけないのか? 冗談じゃあない」
「佳輔の意地悪~っ。じゃあ、ここで、マイケル・ジャクソンの『今夜はビート・イット』踊るからさ」
「ええ? いきなり何だよ」
「俺、小さい頃から何度もビデオ観て練習してるから超上手いんだって」
 崇史はそう言うと、席からサッと素早く立ち上がり、店内に流れる趣味の悪いジャズ風電子音楽に乗せてステップを踏み出した。
「や、やめろって、崇史、おい」
 慌てて制止しようと袖を引っ張る。その音に店内の僅かばかりの客が振り向いたが、老婆のマスターは相変わらずのんびり本を読んでいた。
「まあ俺が観てたのはアル・ヤンコビックの方だったけど」
「踊るなって、おい、分かったからやめてくれ……っ」
 ああ確かそれってデブが踊ってるビデオだったよなあ…いや、あれは『BAD』の方だったっけ…? とか思い出しながら、佳輔は結局崇史に振り回される自分を、彼の猫のように不憫に思うのだった。



「この猫……お前にそっくりだな」
「そう?」
 佳輔にきつく言われ爪をすっかり切られた猫をあやしながら、自分の部屋には座布団しかなかったよなあ、と崇史は柔らかいソファーに寄り掛かった。
「猫のくせに構え、構え、ってうるせえとことか」
「だって一人でいること多いし寂しいんだよ、な?」
 あやしていた崇史の手を振り解いて、猫が佳輔の足元にやってきた。それでも無視していると、あまり可愛くない声でうーうー鳴き出す。終いには佳輔が読んでいた雑誌の上にドタッと寝転がり、俺を構わないとどうなるか分かってンのか、とガンを飛ばしてくるのだった。
「邪魔だ、このクソ猫!」
「小鉄は佳輔が好きなんだよ~、な?」
 どんなにこちらが嫌がろうとも、構ってくれるまで相手を振り回すところなんか、主人から教え込まれたとしか思えない。見ている内に顔まで似ているような気がしてきて、その二つの甘ったれた表情に、佳輔は途方に暮れるばかりだ。
「俺は、いきなり二人もヒモが増えた風俗孃の気分だ……」
「ええ!? 俺って佳輔のヒモなの??」
 真に受けるな馬鹿、と思いながら、佳輔は雑誌の上に乗ってる猫の首根っこを引掴んで退かせた。また不満そうにうーうー鳴く。猫なんだからにゃあと鳴けよ、とテーブルの下に放り投げた。
「ああそうだ。これから毎日、口で御奉仕な」
「えええ~っ、毎日ぃ!? そんな俺、顎関節症になっちゃうよ」
「何でお前、そんな具体的な症状まで判ってるんだよ……」
 しまったと口を押さえた崇史を、こいつは墓穴堀りの名人だなと感心しながらも、佳輔は冷たく言い放った。
「言っとくけど、口以外は許可しないからな」
「そんな、佳輔ぇ~。俺はね、小鉄にお前の分までタマを使ってやるって誓ったんだよ」
 そんな誓いを立てられる猫の身にもなってみろよこの馬鹿、と佳輔は広げていた雑誌を仕舞い、テーブルの下で丸くなってる猫を抱き上げた。
「嫌だったら出てけば?」
 佳輔の辛辣な言葉に合わせて、猫が嬉しそうに、にゃあと鳴いた。



 佳輔は家で洗濯はしない。
 と言っても、別に汚い服のまま過ごしているわけではなく、家の中に洗濯物が干してある、という状態が生理的に大嫌いな佳輔は、スーツやネクタイは当然クリーニングに出すとして、Yシャツや上着類も全てクリーニングに、それ以外の普段着やら下着やらの洗濯物は、みんな近所のコインランドリーでまとめて洗うことにしていた。
「洗濯機あるんだからさ~、これぐらい自分で洗えばいいじゃん」
「うるさい、お前の分洗ってやらねえぞ」
 洗濯機が壊れたとき、流しで地道に洗濯していた崇史からすると、全てクリーニング屋とコインランドリーで済ませてしまう佳輔の金銭感覚というか神経が理解できなかった。何のために全自動の洗濯機を持ってるのか、いらないならくれよケチ、と思うのだった。
「よく考えてみろ、俺が帰ってくるのは殆ど毎日深夜だぞ? 洗濯モン干したっていつ取り込むんだよ」
「じゃあ週末にまとめてやればいいじゃん」
「それまで洗濯モン溜めたままでいろってか?」
 第一、週末はお前と会ってるだろうが、と佳輔は心の中で毒突いた。洗濯の為に会わないなんて言ったら、崇史はきっと大騒ぎして何としても洗濯の邪魔をするに違いない。
「それじゃあ家ン中で干せば?」
「絶対やだ」
 深夜のコインランドリーは人気が無い。洗濯機は温水使用・洗剤柔軟剤自動注入式の新型だったが、古いコンクリート独特の壁の染みとか、ゴウゴウ回ってる洗濯機の音とか、古びた蛍光灯のジーッという音ばかりが耳について、寂しいところが苦手な崇史は佳輔の袖を引き寄せギュッと握った。
「何だよ、くっつくなよ」
「くっついてないよ」
 コインランドリーの隅のベンチは硬く、座り心地が悪い。動く度にギシギシと軋む音がして、その音さえも崇史は気味が悪いと思った。
「これをくっついてると言わんで何を……ん……っ」
 顎を掴んで引き寄せて、崇史は佳輔の唇を浅く奪った。それでも、崇史の弾力のある唇は佳輔の舌をすぐに吸い取ってしまう。
「キスしてるんだよ」
「ん……、馬鹿、誰か来たらどうするんだ」
 唇を離しても頬や首筋に寄り添う崇史を、佳輔は何とか腕で押し遣って退けようとした。
「誰か来た方がいいよ」
「はあ?」
「だってここ、ひっそりしてて怖いじゃん~」
「お前な……、言ってることとやってることが矛盾してるぞ」
 崇史は、佳輔に構ってもらえればそれで良いのであって、それがどこだろうと誰が見ていようと細かいことは気にしない。勿論、当の佳輔が嫌がっていても気にしない。
「ほら、あの隅の方とかさ、ゾンビがいたりエキノコックスに感染したりしそう」
「お前の部屋の方がよっぽど汚いだろ……ん?」
 いつの間にか下半身に手を伸ばしていた崇史は、佳輔のズボンのチャックを今にも下ろそうとしていた。
「お、おい、こんなとこで何考えてんだ」
「汚れちゃったらここで洗えばいいじゃん?」
 洗うって、こんなデカイ洗濯機でたった二枚のパンツをか? と思いながらも、それはそれでまあいいような気がした。きっと嫌と言うほど綺麗に洗い上がるに違いない。
 崇史の熱い手が下着の中に侵入してきて、着替えのパンツが回っているであろう洗濯機を見ながら、今度は自分の手に崇史の熱い下半身を感じる。着替える頃にはちゃんと洗濯し終わっていてくれないと困るな、と佳輔が言うと、崇史は嬉しそうに、余裕だね、と答えた。



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