ウシュアイアからの絵葉書

第一話


 沼倉の手元に絵葉書が届いたのは、夏の暑い最中だった。
 この日仕事から帰った沼倉は、汗で貼り付くシャツを鬱陶しく思いながら、郵便受けから夕刊を取り出した。その時、不意に何かが足元に落ちた。それがその絵葉書だった。
 普通の葉書より一回り大きい。端が折れてよれよれになっていて、裏を見ると、涼しげなどこかの国のカテドラルを写した風景写真だった。一見すると欧州のようだが、この写真だけでは具体的にどこなのかは分からない。沼倉の知る限り、差出人はどこにいてもおかしくない奴だからだ。そして宛名の下の方に、下手糞な字で更に下手な文が書かれていた。


チョコレートがうまいもんで、いっぱい食ってたら
ニキビがいっぱいできた。こんなにニキビが
できたのは中学以来だよ。本当参った。
いや、中学の頃、ニキビあったかな? 覚えてないや。
ちゃんと顔洗うようにしたら治ったけど。
でもこっちのセッケンはやたら油が取れすぎて、
今度は顔がガサガサになったよ。
秋頃日本に帰ると思う。帰ったら刺身が食べたいなあ。
秋だったらサンマの塩焼きもいいか。
帰ったら飲みに行こうや              イワサキ


 どこにいるとか、そこで何をしているとか、全く書かれていない。消印を見ても、知らない言葉で書いてあるから、どこからだか分からないのだ。いつもいつも、くだらないことばかり書いてくる。多分、ペンを持ったその時一番考えていることしか書かないからだろう。
 温厚で人の良さそうな、のんびりとした印象を与える彼だがその実、大胆且つ機知に富んでいるのを沼倉はよく知っている。それをおくびにも出さないのが彼の良いところだが、こうも稚拙な文を書かれるとそれも疑いたくなってくる。
 沼倉はもう一度、その下手な文を読み返した。何度読んでも、彼がどこにいるのかは分からないのに。
 いつもそうなんだ。お前は今どこにいる?
 沼倉は空を見上げた。この暑苦しい曇り空は、彼の下まで続いているのだろうか。



 岩崎が帰国したのは、冬も間近の十一月中旬だった。秋に帰ると言っていたのに幾分延びてしまったようだが、まあ、彼に関してはよくあることだった。
「う~ん、やっぱ和食だなあ」
 成田帰りに寄った居酒屋で、岩崎は酒も飲まずにご飯とホッケの干物を頬張っていた。
「二日近く飛行機乗ってたから、ロクなもの食ってなかったんだよね」
「安いチケット買うからだよ。どこ経由で帰ってきたんだ?」
「モスクワ」
 あっという間に食事を終えた岩崎は、ポケットから煙草を取り出しそれに火を付けた。見たことのない銘柄で、煙の臭いが強い。食後に煙草を吸うのは、岩崎のいつもの楽しみだった。
「あ、これな、お土産」
 岩崎はそう言うと、様々な銘柄の煙草をテーブルに広げた。色とりどりのケースに変わったロゴ。中には葉巻まである。煙草の収集は岩崎の趣味のようなもので、どこの国に行っても土産は煙草だった。
「まあた煙草かよ。どうせ変な味ですぐ飽きちゃうのに。しかもこれ、口開いてるぞ」
「税関でいくつか中までチェックされたのよ。いつもは口開いてるやつしか見ないのにさあ。中開けて臭いまで嗅いじゃってよー。麻薬捜査犬と遊んでたのがまずかったのかなあ」
 そう言って岩崎は頭をポリポリ掻いた。その様子を想像して沼倉はただただ呆れるばかりだ。
「遊ぶなよ。馬鹿かお前は」
「だって、暇だったんだよ。税関凄い並んでるし。でっかくて可愛い犬だったなあ」
「お前は暇でも犬は忙しいだろ」
 沼倉も岩崎から煙草をもらい、火を付ける。しかしすぐに顔をしかめた。鼻から抜ける臭いが強く、煙が濃厚でいて香ばしくもある。こんなクセの強い煙草、肺どころか体中ヤニだらけになりそうだ。
「えーと、沼倉の分はこれとこれね」
 しかも、よりにもよって今吸ったクセの強い煙草を差し出してきた。他のは、見かけはライトそうだが実際吸ってみないことには分からない。沼倉は見るからに嫌そうな顔をした。
「もっと他にお土産無いの? お前いっつも煙草ばっかり」
「う~ん、他にねえ……。じゃあ向こうで買った石鹸とか」
「いらねえよ、そんなもん」
 まあ、でも彼が気の利いた土産を買ってくるというのもそれはそれで不気味なので、この舶来物の煙草をとりあえずもらうことにした。実は岩崎には内緒だが、以前にもらったのがまだ封も開けずに、机の引き出しの中に溢れそうなほど仕舞ってある。ここまで揃うとかえってインテリアとして良いかもしれない、などと沼倉は思った。
「で、結局どこ行ってたんだ」
「う~んと、パリから出てベルギー、チェコ、ルーマニア、ウクライナ辺りを適当に……。んで、またパリから帰ってきた」
「相変わらず滅茶苦茶廻ってるなあ。東欧がメインか? 北欧は行かなかったんだな。行きたいみたいなこと言ってなかったか」
「うん、自然が綺麗だし行きたかったんだけど、結構遠いし物価高いからな」
「物価が高い国には居られねえってか」
「あはは、日本はどうなんだ。俺日本が一番合ってる気がするけど」
 この前はアジアに行っていたし、その前は同じくフランスから入ってスペインに長期滞在した後、地中海を渡ってモロッコに行っていた。こんな風に世界中フラフラしている奴が、何が日本が一番合ってる、だよ。おそらくこれを本気で言っているだろうから、沼倉には彼が何を考えているのかさっぱり分からない。
「本当だって。俺、どの国も結局日本ほど長居していないし。それに和食好きだし」
「日本人なんだから当たり前だろ。でもさ、お前仕事辞めてから、日本にどんだけ居たよ? 旅先にいる方が長いだろ」
「えっ……そうかなあ」
 沼倉の言葉に、岩崎は真剣に考え込んだ。岩崎は帰国後暫く日本で稼いで、いくらかまとまった金ができるとまた旅立つ、というのをずっと繰り返していた。かといって、何処か一つの国に何年も居座る、ということもしていない。とにかく一箇所に落ち着いていない、根無し草もいいところだった。
 沼倉がそんな岩崎と知り合ったのは、大学に通っていた頃だった。同じ学科だったので、ごく自然と親しくなった。就職してからはそれぞれ違う道を歩んでいたが、それでも不思議と疎遠になることはなく、こんな風に時々会って、時々メールを送り、そして時々絵葉書がやって来る。二人はそういう関係だった。



 岩崎から電話があったのは、二人で飲みに行ってから二日後のことだった。
「えっ、お前の下北のアパート、改築だって?」
『そうなんだよ、ひでえ話だろ?』
 どうやら旅先にいる間に、岩崎の住んでいた年代物のボロアパートが改築工事に乗り出してしまったらしい。大してマトモに住んではいなかったとはいえ、まさか帰る家が無くなってるとは、さすがに岩崎もショックなようだ。
「家具とかどーなったんだよ? 第一、そういうのって全居住者の許可が必要だろ?」
『まあ家具なんつってもあんま無いんだけどさ、みんな実家に送られてた。許可も保証人の実家の親が勝手にしたらしい。んでさ、悪いんだけど、お前んとこ暫く泊めてくれないか? 俺、勘当同然で実家帰れねえし』
「俺は別にいいけけど……」
 そう言えば、彼が新卒で就職した証券会社をあっさり辞めてしまったとき、一人息子だっただけに彼の両親は猛反対したらしい。しかもその後定職に就く様子もなく、実家に帰れないのは当然と言えば当然であった。
『やっぱ……年金払ってない俺が、公務員住宅に泊まるのってヤバい?』
「知るか、そんなの」


 沼倉は、省庁に勤めている所謂公務員だ。住んでいるのも、公営団地のような構えの公務員住宅だった。独身寮の割に広いが何処か陰気な建物で、団地特有の画一的な作りがより閉塞感を強くしている。初めてこの公務員住宅の一帯を見たとき、沼倉は昔学校にあったステンレスの下駄箱の一群を思い出したものだった。常日頃、ここから出てやろうと思っているのだが、日々の忙しさとそれ程不便なわけでもないので、結局、就職以来ずっとここに住んでいて出ていく予定も立っていない。
「お前、荷物こんだけなの?」
「うん」
 岩崎はバックパック一つの身軽さで、これからまた旅にでも出そうな雰囲気であった。
「だって荷物全部実家だから」
「ああ、そうか」
 旅行に出たときのまま、という訳だ。彼にとっては、自分の家に住むことも、旅先に一時滞在するのとあまり変わらないのかもしれない。
「新しい住処が決まるまで、暫く厄介になるな」
「食費と光熱費ぐらいは入れてくれよ」
「当たり前だろ~。今度お前の分の年金も払ってやるから心配すんな」
 電話では途方に暮れて情けない声をしていた岩崎だったが、ここに来るまでにすっかり立ち直ってしまったようだった。家が無くなってこうもあっけらかんとしてる奴も珍しいと、改めて沼倉は思うのだった。



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