そんな週末


 珍しく残業もなく仕事が終わった佳輔は、だらだらと会社を出て地下鉄の駅に向かっていた。
 週末ともなると、いつもより街並みに少し活気が出ている気がする。でもそう思うのも、珍しく仕事が早く終わって気分的に軽くなったからだろう。ビル風が、いつもより軽い気がする。
 最近やっと会社での自分の地位も安定し、デスクワークが減って仕事が面白く感じるようになってきた。だが、日々の残業の嵐はどうにかして欲しいと切に思う。今日のように早く帰れる日はそう滅多にない。
 久しぶりに自炊でもしてマトモな飯でも食うことにするか、と佳輔は頭の中で今日の夕飯のメニューを何となく思い描き、帰りにスーパーでも寄ろうかどうしようか考えていた。
 地下鉄の入口の階段を下りようとしたその時、携帯の着信音に気付いた。表示された名前を見て、出るかどうか躊躇したが、佳輔は溜息を一つ吐くと受信のボタンを押した。
『あっ、佳輔っ、良かった出てくれた』
「……崇史」
 佳輔は如何にも忌々しそうにその名を呼んだ。甘ったれた声を聞いて、やっぱり出るんじゃなかったと後悔した。
『佳輔、訊いてよ』
「名栗さんと呼べ。お前に馴れ馴れしくされる謂われはない」
『……名栗さん。俺、やっと再就職決まったんだ。血の滲むような努力をしてですね……』
「そりゃあめでたいな。おめでとう」
 思いっ切り感情のこもっていない祝辞だった。
『だあ~、そんな冷たく言わないでよ、マジで泣くよ俺。でね、その就職祝いをやりたくって……そんで佳輔にも来てもらいたくって』
「勝手にやってろよ、お前とは縁切ったって言っただろ」
『そんなぁ~。俺、佳輔にハッパ掛けられて、一生懸命頑張ったのに』
「でも裏切ったのはお前だろ」
 この一言はさすがにキツかったようだ。一瞬の沈黙に、ぐっと息を飲む音が電話越しから聞こえてきそうだった。
『佳輔っ、俺、就職できたし、だから佳輔にお礼言いたくて』
 なおも縋る電話の越しの声に、佳輔はまた溜息を吐いた。
「……判ったよ。で、その就職祝いには他に誰か来んの」
『あ、その、うん、来ます。メシとか用意するんで、来てくださいよ』
 佳輔は崇史のしつこい誘いに適当に生返事をすると、さっさと携帯を切った。地下鉄の階段を駆け下りて、いつもとは反対のホームに向かう。
 思い描いていた予定とは大分狂ってしまうが、まあ、たまにはいいだろう、そんな週末も。一人で過ごすよりは、いくらかマシなはずだ。



 崇史と佳輔は、ついこの前まで付き合っていた。
 しかし、数ヶ月前に崇史の勤めていた会社が倒産してしまうと、途端に無気力になった彼は、退職金とバイトで何となく過ごすようになってしまった。そうしているうちに佳輔との生活リズムや感覚がズレていき、次第に二人の関係はギクシャクしたものになっていった。とにかく佳輔は忙しかったのだ。鬼のように。
 ただ、佳輔としては、それはよくあるパターンだった。大学の頃付き合っていた奴とも、就職してからお互い勤め先が離れてしまい、次第に疎遠になって、何となくフェードアウトしていった。だから、生活リズムの変わってしまった彼に無理に合わせようとも思わなかった。面倒臭いことはしないに越したことはない。元々佳輔はそういうところが淡泊な奴なのだ。
 
「佳輔~っ、来てくれたんだ!」
 玄関のチャイムを押してドアが開くと、いきなり崇史が抱きついてきた。佳輔は慌ててそれをひっぺがす。
「馬鹿野郎、離れろっての、くっつくな!」
「え~、冷たいな、佳輔。ま、とにかく入ってよ」
 見慣れた六畳一間の和室。剥がれた壁紙の上に無理矢理貼ってあるポスター。まだ仕舞っていないコタツ。だらしないところも以前と全く変わっていない。コタツの上には宅配ピザと、その辺のファーストフードで買ってきたようなサラダやフライドポテトが置いてあった。そうだ、崇史は料理が全くダメで、いつもこんなものばかり食べていた。
「上着掛ける?」
「あ、うん」
 スーツの上着を崇史に渡すと、彼はそれをハンガーに通し、壁に掛けた。以前よくやっていたその一連の動作に、何だかこのままくつろいでしまいそうな誘惑に駆られる。
「あれ……誰か来るって言ってなかったっけ」
 コタツの脇に座った佳輔が辺りを一通り見回してそう言うと、崇史はえへへ、と悪びれた風もなく笑った。
「……まさか、誰も来ないのかよ」
「う~ん、そうみたい」
「帰る」
 ネクタイを緩めかけていた手を止め、すっと立ち上がると佳輔は真っ直ぐドアの方に向かって行った。
「あ~、待って、佳輔」
「名栗さんと呼べ!」
「待って、名栗さんっ」
 それでも出ていこうとする佳輔を、崇史は後ろから無理矢理抱きしめて引き止めた。耳元に、崇史の熱い息が吹きかかり、思わず溜息が出そうになる。それを抗うように佳輔は後ろを振り返ると、鋭く崇史を睨み付けた。
「あのな、俺はまだお前を許した訳じゃないんだぞ。つうか全然許してねえ」
「判ってます」
「だったら離せ……んっ」
 顎を引き寄せられたかと思うと、いきなり唇を塞がれた。すぐに舌が侵入してくる。よく知っている崇史の厚い唇と、弾力のある舌。たどたどしいキスの仕方も変わっていない。
「ん……んっ、…は、なせって、誰がキスしていいって言ったよ!」
 何とか崇史の唇から逃れると、佳輔は彼を乱暴に押しのけた。
「だって、佳輔見ると俺、キスしたくなる」
「名栗さんだっ。お前に呼び捨てされる謂われはない」
 崇史の腕を振り解き、くるりと踵を返すと、佳輔は帰り支度にかかった。壁に掛けてあった上着に手を伸ばすと、その手を崇史が掴み、自分の方に引き寄せた。
「……佳輔、帰らないでっ」
「うるさい、騙しやがって」
「だって、そうでも言わないと佳輔来てくれなそうだったから……。でも就職決まったのはホントだよ」
 佳輔の腕を掴んだまま、崇史は真剣な眼差しを向けた。
「マジで? お前みたいなの取ってくれるとこあったのか」
「うん、小さな広告代理店なんだけど……」
「ふうん。ちゃんとした会社?」
「そんな、アヤシイ会社とかじゃないよ~。とにかく、メシだけでも食ってってよ。せっかく用意したし」
 崇史の必死な表情に佳輔は一つ溜息を吐くと、渋々部屋に戻った。腹ごしらえだけしてすぐ帰ってやる、とその時は思ったのだ。


「あ、ひょっとしてその黒ラベル、お祝い?」
 佳輔がコタツに置いたビールの入ったビニール袋を見て、崇史は嬉しそうに言った。ピザの箱を開け皿に載せ、サラダも皿に盛りつける。そうすると、結構豪華そうに見えるから不思議だ。
「違えーよ。これは俺用」
「そんなヒドー。一本ぐらいいいじゃん」
「やだね。……ん? 何だ?」
 足元に、何かの気配を感じた。コタツの中を覗くと、虎縞の猫が佳輔の足元をすり抜け、崇史の足元に頬を擦り寄せていた。
「あっ、小鉄」
「コテツぅ?」
 崇史は猫を抱き上げ、佳輔に示して見せた。まだ子供の雄猫だ。
「虎縞だったらアントニオだろ」
「え~、ヤだよ、そんなレスラーみたいの」
「つうかこんなアパートで猫飼っていいのかよ。なあ、アントニオ」
 受け取った子猫をあやしながら、佳輔は勝手に名前を変えてしまった。じゃれてきて可愛いが、ちょっと爪が痛い。
「勝手に名前変えないでよ~。だってそれに隣のオッサンも飼ってるし」
「ふーん。あれ、そう言えばお前、猫嫌いじゃなかった?」
 嫌い、という程ではなかったが、近所で放し飼いにされている猫を気味悪がっていたのを思い出した。何を考えているか判らないから怖いと言っていた。そんなの、人間だって何考えてるか判らないものだと佳輔は思うのだが。第一、猫は大して何も考えてはいないだろう。
「あ~、そうだったんだけど、だって俺、いきなり無職になっちゃって不幸のどん底だったのに、佳輔忙しいとか言って全然相手してくんないし、寂しくて死にそーだったとこにコイツ見つけて……」
「ふーん。寂しかったから猫飼って、浮気すんのか」
 棘のある一言。崇史が缶ビールを空けようとした格好のまま固まった。
 確かにお互いズレを感じ始めていた時期だったが、佳輔としてはまだ続けていけるつもりだった。それなのに、相手の気持ちが自分より先に離れて行ってしまったことが、どうにも許すことが出来ない。自分から離れて行くのは何の躊躇いもないくせに、そういうところは勝手な奴だった。
「だあ~っ、だからそれは誤解だって……」
「どこがだよ。部屋に連れ込んだりして、立派な浮気だろ」
 あの日、仕事帰りに珍しく佳輔の方から崇史のアパートに訊ねて行ったとき、部屋には既に誰かがいた。そしてやたらに慌てていた崇史。ちらりと見えた顔が結構若かったので、おそらくバイト先の子か何かだろう。
 怒って帰ろうとするのを必死に引き止める崇史を、大量に書類の入った鞄でぶん殴って、そして佳輔はそれでお終いだと思っていた。
「違うって、あれはあっちが勝手に……それに最後までやってないし」
「最後までやってないってことは、途中まではやったんだ」
 ビールをグイッと飲み干し、崇史の方には見向きもせず佳輔は冷たく言い放った。
「あああ~。佳輔、俺の言うこともちょっとは聞いてよ」
 佳輔の冷たい横顔を前に、崇史は思わず頭を抱え込んだのだった。


 崇史は、いつもそうやって自ら墓穴を掘る。
 要領がとてつもなく悪いのだが、彼自身はそれについて特に思い悩む様子はない。全く気が付いていないからだ。
 だが今回は、彼にしては相当頑張ったのだ。浮気未遂の現場を押さえられても、佳輔に散々冷たくされても、想像以上に早く再就職を決めた。
 本気なのだ。彼にしては。


 佳輔はピザを食べ終えると、辺りをキョロキョロと見回した。
「崇史、手ェ拭くものない?」
 聞こえたのか聞こえなかったのか、崇史はじっとこちらを見つめて動かない。佳輔は汚れた手を持て余し、手に付いたピザソースをペロリと舐めた。
「おい、タオルかなんか無いのか?」
 佳輔が苛立たしげにそう言った途端、タタミが背中に当たった。肩を押さえつけられて起きあがることが出来ない。崇史が肩を掴んで、床に押し倒したのだ。
「なっ、何で上に乗っかってんだよ! どけって!」
 首筋に唇を寄せた崇史を押しのけようと腕で突っぱねるが、何故か汚れた右手を気にしてしまって上手くいかない。
 それに、崇史はよく知っているのだ。佳輔の弱いポイントを。脇腹の辺りをそっと指でなぞり、耳の後ろに優しく口付けをされると、どうしたって溜息を出さずにはいられない。
「崇史、てめ、一発やれば別れ話なんて無かったことになるとか思ってるんじゃねえか!?」
「えへへ。まあね」
 そう言いながら崇史は慣れた手つきで佳輔のワイシャツを脱がしていく。時折胸元に手を這わせ、唇を寄せた。
「う~ん、俺、こうやって佳輔のワイシャツ脱がすの好きなんだよねえ」
「も、お前、ほんっと馬鹿! チ○コに回った血液、たまには脳にも回せ!!」
 佳輔のあんまりな罵倒の言葉に、崇史はにっこりと微笑み返す。
「佳輔は脳にばっか血液回ってるみたいだから、チ○コにも回してあげるよ」
「はあ!? ちょ、ちょっと待て」
 思わぬ崇史の切り返しに、佳輔は柄にもなく動揺してしまった。今まで、崇史がこんな風に強引に事に及ぼうとしたことは無かったのだ。そんな佳輔の動揺を察したのかどうか、崇史は這わせていた手を更に下に下ろして行く。
「なっ…、やらんでいい、馬鹿っ。やだって……っ」
 スラックスのベルトを外し、下着と一緒に一気に降ろされる。露わになったそこを手で弄ぶと同時に、乳首を強く吸い付かれ、佳輔は思わず身体をビクつかせた。やんわりと触れられている下半身が、途端に火がついたように熱くなる。それに、今はそれどころではないのに、佳輔はまだピザソースで汚れた右手を気にしていた。
「……っ、や……、めろって、あのな、俺はまだお前を許したわけじゃ……っ」
「佳輔、早ーい」
 崇史の手の中で、佳輔はのものはもう濡れて先走りを滴らせていた。焦らすように裏筋をつ、となぞられる。
「あっ……」
 確実に突かれる快感のポイントに、佳輔はただ翻弄されるしかなかった。甘い声を発した佳輔の口を、崇史は塞ぐように激しいキスをする。
 佳輔がその、口腔中を舐められるようなキスに弱いのを崇史はよく知っていた。それをされると佳輔はもう、何をされても感じすぎて、どうしようもなくなるのだ。
 崇史の指が、舌が触れた所が何処も熱く火照り、快感が腰に降りてきて身体中を甘く疼かせる。
 崇史は体を起こすと、コタツの脇に置いてある棚からローションとゴムを取り出した。
「は、あ……、ちょっ……待て、お前、用意が良すぎないか?」
「だって、佳輔と一緒にいたら、どうせやりたくなるに決まってるじゃん?」
 初めからそのつもりだったのか、と言おうとした佳輔の口を噛みつくようなキスでまた塞ぐと、崇史は素早くゴムを付け、ローションを佳輔の下半身に滑り込ませた。
「んっ……」
 指が中まで入ってきた。崇史は、思わず身体を固くした佳輔の力を抜こうと、乳首を指で摘み、舌先を尖らせて舐める。上と下から責められ、佳輔は躊躇いもなく嬌声を漏らした。もうペニスが溶けそうなほど濡れて、出てしまう声を我慢することが出来ない。
「あ、あ……っ、も、ダメ……」
「佳輔、もう怒ってない?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべ、崇史は耳元で囁いた。佳輔の足を持ち上げ、腰をあてがう。
「ああ……、ん、……だ、から、許したわけじゃあないって……ああッ」
 一気に挿入され、我を忘れるほど身体を仰け反らせた。快感が身体を貫いて、手足が甘く痺れたようになる。崇史は佳輔の上に覆い被さり、耳朶を甘噛みしながら、またそっと囁いた。
「佳輔……っ、佳輔が構ってくれないと、俺、寂しくて死にそうになる」
「あ…、ん……っ、た、かし、だったら、一言ぐらい、謝れよ……っ」
 いつになく激しい突き上げに、身も心も翻弄されてしまう。思わずしがみついた崇史の背中は汗に濡れていて、彼の匂いが佳輔を安心させ……そして興奮させた。
「ん……っ、あれ? 俺、謝ってなかったっけ?」
「馬鹿、お前、絶対反省していないだろ……っ、あっ、も、絶対許さねえ……」
 さっきから微妙な角度を突かれ、内股がビクッと震えるほど感じてしまう。こんなになってしまうのは、久しぶりだから、という訳だけじゃあないはずだ。
「えー、佳輔、酷いよ~」
「……はあっ、うるせ、お前なんかも、あ……、んっ、構って、やんねーから……あっ、あ……っ」
 構ってやらない、と言いながら、佳輔は崇史の首に縋って快感の波に溺れていた。そして悪態を付きながら、そのまま崇史の腕の中で果ててしまったのだった。


 風呂から上がると、崇史は悠々とピザを肴に佳輔が買ってきたビールを飲んでいた。無理矢理膝の上に嫌がる猫を乗せ、一緒になってTVを観ている。佳輔の姿を見ると、彼は嬉しそうに微笑みかけた。
「佳輔、俺が黒ラベル好きなの知ってて買ってきてくれたんでしょ?」
「んなワケないだろ」
 どうやったらこんな風に、自分に都合の良い方にばかり考えられるのだろう。これはもう一種の才能だとしか思えない。こんな奴に飼われててあの猫は大丈夫なんだろうか。野良だった方が幸せだったんじゃないかと思わずにはいられない。
「だって佳輔、スーパードライ派じゃん?」
「別に、適当に買ってきただけだっての」
 佳輔の突っ慳貪な言葉に、崇史は佳輔の濡れた髪を愛しそうに撫でながら、
「それでも俺、嬉しい」
 と言って、笑ったのだった。
 きっと彼は、面倒臭いことが嫌いな佳輔に、たまには面倒なことをしろと神様が無理矢理引き合わせた奴なんだろう。
 面倒臭がりで思いやりのない佳輔と、要領が悪くて甘ったれた崇史と、自分のことばかりで全然歩み寄りのない二人だが、それでも週末を一人で過ごすよりはいくらかマシだろうと思うのだ。



2002年公開
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