フレームの曲がり方

第一話


「先輩、まだいるんですか」
 パソコンのモニターを、口を開けたままボーっと見つめていたオレに学部四年の西澤が声をかけてきた。
「……いる」
 返事をするのも億劫だったが、しなかったらまた何か言われそうだと思ったオレは、振り返らずに最低限の返事だけした。
「何か、研究室に来るたんびに先輩いる気がするんですけど。毎日来てるんですか」
「修論なんだよ、見てりゃわかるだろが!」
 やばい、カルシウム欠乏してるよオレ。でもこういうときは声かけないで、そっとしておいて欲しいんだけどなあ。
「はあ、でも顔色悪いですよ、かなり。実験系は体力が勝負ですよ、先輩」
「食う時間ねえんだ。ついでに金もねえ」
「論文まとめる時間も無さそうですね。今から実験してるようじゃ」
 何だよこいつ、からかいにきたのか。この実験はデータの見直しのためにやってるんだ。切羽詰まってるのにオレ何やってんだろとか思ってたけど、人から言われるとむかつくもんだなあ、くそ。
「奢りますよ。学食で良けりゃ」
 しかし今度は、意外な言葉に拍子抜けしてしまった。西澤は屈託の無さそうな笑みを浮かべ、「オレも腹減ったし」なんて言っている。でも後輩に奢ってもらうなんて、何とも情けなくないか?
 結局オレは西澤の言葉に乗せられ、学食で夕飯を食べることにした。ま、奢ってくれるって言うし、確かに腹は減っていたので、断る理由がなかった。時間が無いこと以外は。
 学食はこの時間になるとさすがに空いていて、妙に寒々しい空間になっていた。オレはここぞとばかりに蕎麦とカツ丼の二種類注文し、適当に空いている席に着いた。西澤はチキンカツ定食だ。そっちの方がよかったかな、なんて思ったりする。
「お前こそ、何で学校に来てるんだ? 卒研終わっただろ?」
 西澤は学部生の四年で、卒業研究は先月末で終わったはずだった。オレは、学食の明らかに汁が濃すぎる蕎麦をずるずる食べながら、その暇を分けてくれ、と思った。
「はあ、でも院に行くんでその準備とか、色々あって、結構学校来てるんです」
「え、お前、進学すんのか」
 うちの学科は学部三年後期から各研究室に入ることになっている。西澤とはその頃からの知り合いで、その時修士一年だったオレは、西澤がいた三年の授業の実験助手をしてやったり、非常勤講師みたいなことをしていた。見かけによらず割と真面目な西澤は結構まめに研究室に出入りしており、実験や論文が立て込んで研究室に籠りきりになることが多くなったオレとよく顔を合わせるようになっていた。
「ええ、まあ」
「やめとけよ、マスターなんか。今時何の足しにもならねえぞ。学部の内に就職しとけって」
「先輩こそマスターのくせに何言ってるんですか。もう院試も通ったし、遅いっすよ」
「院試っつったって、教官にOKもらえば誰でもなれるだろ」
 実質、かなりの学生が院に進学しているのが現状だった。オレも当然のように院に進学したし、その事に何の疑問も持たなかった。
「そのOKもらうのが大変なんじゃないですか~! その後すぐ卒研で、夏休みも冬休みも無かったんですから」
 オレは食べ終わった蕎麦の汁を、異常に濃すぎるなあと思いながら啜った。薬味の葱も繋がってるし、なんてやる気のない蕎麦なんだろう。さっき食べたカツ丼もやたら味が濃かったし、学生を高血圧にでもするつもりか、この学食は。
「院に行くなら誰でも通る道だろが。それにお前なら教官もすぐOK出すだろ」
 真面目で人当たりの良い西澤が、教官に気に入られない訳はなかった。辛気くさいうちの研究室の中で、一人爽やかな笑顔を振りまいているやつだった。猫背が癖になってるオレとは大違いだ。西澤は「んなことないっすよ」なんて言いながら頭を掻いた。
「そういえば先輩、眼鏡変えたんですね」
 蕎麦の湯気で曇った眼鏡をシャツの裾で拭っていると、西澤が頬杖を付きながら言ってきた。こいつの視線ってのは本当に真っ直ぐで、別に後ろめたい事があるわけではないが、オレはいつも自分から目を反らしてしまう。
「あ、ああ、よく気付いたな」
 はっきり言ってオレは、服装や見た目なんて割とどうでもいい、服は着れればいいのであって着心地第一、丈夫だったら尚良し、てな感じで本当に無頓着な人間だ。
 そんなオレが何を思ったか調子扱いて、いかにも流行の先端行ってますって感じのショップの店頭に飾ってあった、ちょっと変な曲がり方したフレームの眼鏡を買ってしまったのだ。
 これから修論の追い込みだし、気合い入れっか~ってのもあったような気がするが、何故だかは正直よく判らない。だって研究室に籠るというのに、新しくした眼鏡のフレームを見るやつなんて殆どいないのだ。
 でも掛け心地もなかなか良かったし、丈夫そうだからきっと長く使うだろう。それまで眼鏡とコンタクト半々ぐらいだったのが、これを買ってから眼鏡で過ごす時間が長くなっていた。
「そりゃ気付きますよ。先輩今まで銀縁だったじゃないすか。ちょっとらしくないなーと思って」
「……何だ、似合ってないか」
「いや、似合ってますよ。でもちょっと意外な感じ」
 きっとこんな風に遠回しに言うんだから、あんまり似合ってないのかもしれない。オレはやっぱ買うんじゃなかったかなーと項垂れた。よく考えたら今こんなにジリ貧なのも、眼鏡を買ったせいだ。
「だから、似合ってますって。何ガッカリしてるんすか」
「ガッカリなんかしてねえっつの」
 ちょっと後悔したのをアッサリと見抜かれ、オレは慌てて否定した。そんなオレを見てあいつはニヤニヤ笑ってる。いつもそうなんだ、こいつ、さり気なくオレのことからかうんだよな。
「先輩、何でも似合うから、大丈夫すよ」
「……フォローになってねえぞ」
「本当だってば」
 またこいつは、あの真っ直ぐな視線をこちらに向けてきた。オレは反射的に下を向いて、ただでさえ猫背なのに更に身体を小さくした。こういう事言われるのはどうもダメなんだ。
「先輩、今日どうすんですか」
「泊まりだ、泊まり」
 オレは半ばふてくされながら席を立った。そうだ、オレには時間が無い。これでもかって程無いんだ。



 修論は、遅々として進まなかった。一通り実験データは揃っていたが、最近国際誌で同じ分野で新たに論文が発表され、その関連論文の収集に走らなければならなかったのだ。
 学術雑誌を山積みにしてページをめくる。英語を見ていると頭が痛くなってくるんだ、本当に。この日は助手の山際さんと博士課程の仁科が実験をしていて、オレは研究室の隅っこの方で雑誌に埋もれていた。
「先輩、どうですか調子は」
 軽くノックをして、西澤が研究室に入ってきた。最近奴は本当に暇らしく、更に一人暮らしなので「一人で夕食も何だし」みたい感じで、よく差し入れを持ってきてくれていた。有り難いことは有り難かったが、後輩の差し入れをアテにしているのも何だかなあって感じだ。
「……死なない程度に頑張ってる」
 死なない程度だったが栄養状態はとてもじゃないけど良いとは言えなかった。何となく栄養を摂取しなきゃなあと思いつつも、このところ充実野菜とカロリーメイトばかり食べていた。とりあえずこれだけ食べてりゃ死なないだろうと思いたい。
「つうか先輩、カロリーメイト食えば大丈夫だとか思ってるんじゃないですか?」
 机の上に散らばったカロリーメイトの箱を見て、西澤が呆れたような声を上げる。
「駄目なん? カロリーメイト」
「脂質が多すぎなんですよ。逆に蛋白質が少ない。これだけじゃあ体力維持できないですよ。不飽和脂肪酸っつっても結局は脂肪ですからね。摂りすぎは良くない」
「詳しいな。お前、健康マニアかなんか?」
 オレは雑誌から目を上げて、西澤の方に向いた。あまり健康マニアっぽそうには見えないけどな。
「一般常識ですよ。……先輩って専門バカでしょ」
「ああ? 何だとぉ!」
 あまりにも図星だったので、持ってる雑誌で奴の頭を思いっきり殴ってしまった。そうだよ、どうせオレは専門バカだよ。
「ああっ、そんな怒んないで下さいよ。ホラ、お袋ショップの弁当買ってきたから」
 そう言って西澤はオレの攻撃から身をかわし、弁当の包みを出した。お袋ショップというのは、大学の正門近くにある謎の弁当屋で、その名の通りお袋って感じのオバハンが切り盛りしている。安くて美味いと評判だが、店自体が異様に狭くて小汚く、変な店名も相俟ってはじめての人間には非常に入りにくい。
「おい、お前らうるさいぞ」
 オレ達が言い争っていると、仁科が不機嫌そうにそれを注意した。助手の山際さんは隣でまあまあ、なんて言ってなだめている。
「あ、すんません」
「今度騒いだら追い出すぞ」
 オレよりも先に西澤が軽く頭を下げ、何とか事なきを得た。大人しく雑誌を片付け、弁当を広げる。
「ちっ、仁科の奴、学振通ったからって調子に乗りやがって」
「せ、先輩聞こえますよ」
 博士課程二年の仁科は、いかにもって感じの胡散臭い外見で、オレとは全くと言っていいほどそりが合わなかった。昔ゼミの時に、妙に体臭がキツイので「先輩ちゃんと風呂入ってますか」って訊いて以来、やたらと目の敵にされている。ちょっと口が滑っただけなんだけどな。
「仁科先輩、学振通ったんですか。凄いですね」
「うちの教授のコネだろ」
 学振ってのは学術振興会の略で、博士課程在学者か修了者がここの特別研究員に採用されると、研究奨励金ってのがもらえる。つまり給料が出るみたいなもんだ。これに通るのと通らないのとではハッキリ言ってこれからの人生設計が大きく変わる。そしてそれは非常に狭き門なのだ。
「でも仁科先輩、もう国際誌に二本1stで出したんですよね。国内誌も合わせると、結構たくさん論文出してますよね」
 西澤が素直に感心している。何かむかつくなあ。オレはイライラしながら割り箸を割った。上手く割れずに根元が斜めに切れてしまった。
「もういいよ、奴の話してると飯が不味くなる」
「だから先輩、言い過ぎだってば」
 何だよ、やけにあいつの肩ばっかり持つな。オレは少しふてくされながら弁当を開いた。御飯がぎっしりと詰まってて、おかずは煮物が中心だった。買ってきたばかりなのか僅かに暖かく、久し振りのまともな飯に、さっきまでの苛立ちがどうでもよくなってしまった。
「これ、何弁当?」
「日替わりですよ」
「ふうん」
 箸を銜えたまま訊いたオレに、西澤は何を思ったのかクスッと笑った。何だよ。
「いやあ、先輩って判りやすいなあと思って」
「何だよ、それ」
 こいつは笑いながら、またあの真っ直ぐな視線をこっちに向けてきた。反射的にオレは猫背を更に小さくする。何かこの、見抜かれてるっぽい視線が駄目なんだ。
「弁当食べた途端に機嫌良くなったじゃないですか。……あ、切り干し大根美味いすね」
 何だよこの余裕の表情は。……って、きっとオレが切羽詰まってるからそう感じるんだろうな。確かに切り干し大根は美味かった。
「先輩、今日は泊まりですか?」
「いや、帰る。仁科の野郎がいるしな」
 そうだ、あんなのと一晩一緒になんて居られない。オレはさっさと弁当を食べて帰ることにした。めぼしい学術雑誌を鞄に無理矢理詰め込んで、帰り支度をする。

「先輩、今度何弁当が良いですか?」
「何だ、また差し入れしてくれんのか」
 オレ達は研究室を出て、大学の正門に向かった。研究室のある棟から正門までは少し距離がある。
「今度はお金もらいますよ」
「うーん、じゃあ一番安いのでいいや」
 オレがそう言うと、また西澤はクスッと笑った。そんなに可笑しいかよ。
「じゃ、そうしますね」
 まだ笑っている。貧乏性だって言いたいのか。貧乏性っていうより本当に貧乏なんだけどな。
 正門を出ると、オレは西澤に「ちゃんと買って来いよ!」と言って、別れて家路に向かった。 雑誌が、重い。家に帰ってちゃんとこれに目通すのかな、オレ。家に帰ったら風呂入って、それから……寝てしまいそうだ。オレはまだ家にも着いていないというのに、既に勉強する自信が全くなくなっていた。



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