掠れた靴音、そして

第二話


 吉野は今日の辞令を密かに心待ちにしていた。部長から事前に知らされていたものの、こうして印刷された文章で出されるとより強い実感が得られる。
 吉野にしては初めての役職だ。三流企業のヒラ社員でも、多少の肩書きが付けば名刺にハクが付く。そして当然、役職手当が付く分給料も上がるのだ。ここまで苦手な営業周りにも有り得ないサービス残業にも耐え、堅実にやってきたことが報われる瞬間だ。
 しかし、その九月の辞令が出て吉野は、自分の昇格よりも別の辞令にショックを受けた。
「よーしのさん、昇格おめでとーございます~。エラくなっても遅刻しちゃ駄目ですよー」
 馴染みの事務の女の子が、社内掲示板の前に立ち尽くしている吉野の隣にやってきた。
「う、うん」
 何度も張り出された紙の文章を読み返す。見間違いなど無い。
「吉野さんってば、もっと嬉しそうにしなきゃ~」
「う、うん」
 白石課長の東北支社の営業課への左遷が決まったのだ。
「これ、本当?」
「嘘書いてあったら笑えますねー」
 まだ掲示を読んでいないのか、事務の女の子は取り合ってくれない。しかし、折角自分の昇格の話をしてきてくれた彼女に、白石課長の名を出すのは何となく憚れた。吉野は曖昧な返事をして、その場を後にする。
 自分のデスクに戻っても、仕切りの向こうにいる課長の様子が気になってしょうがなかった。今朝出社して挨拶したときは、いつものやる気のなさそうな顔を向けただけだった。元々表情の変化に乏しい人だった。
 吉野はその日一日、白石課長の様子を伺いつつも、結局目を合わせることすら出来なかった。はっきりとそう決まったわけではないが、自分の昇格のせいで、課長を追い出すことになってしまったような気がしたからだ。



 呼吸に合わせて上下する胸に肌をひたりと寄せながら、吉野はその鼓動にじっと耳を傾けていた。
 彼はまだ眠っている。
 先に目が覚めてしまった吉野は、起こさないようにその寝顔をたっぷりと眺め、そして今度は鼓動の音に耳を澄ましていた。きっとこんなに彼の寝顔を見つめた人はいないだろう。鼓動は静かに脈を刻んでいる。どんな夢を見ているのだろう。それとも眠りが深くて何も見てはいないのだろうか。
 唇にそっと触れてみる。彼の息が少しかかったが全く反応はない。舌でそっと濡らしてみた。呼吸は静かに一定のリズムを刻んでいる。触れた彼の肌はとても熱い。眠くなると、いつも彼の手足は熱を持ってくる。眠っている今は普段よりも更に熱くなっていた。
 窓の外ではカーテン越しに、僅かに早朝の日差しが入ってきていた。雀の鳴く声が聞こえる。今日は自分よりも彼の方が先に起きなければならないのだが、彼の寝顔を見ていると起こすのは勿体無くて、吉野はカーテン越しの朝を恨んだ。
 とても熱い彼の肌。口付けすると、唇越しにもその熱さが判る。遂に吉野は我慢出来ずに、呼吸に合わせて上下する胸に舌を這わせて、その熱さを愛撫した。そして自分のものに手を伸ばす。起こさないように細心の注意を払いながら、彼の肩や、首筋や、頬の熱さを堪能する。
「……ん……っ……」
 先走りで自分の手が濡れ始めると、殆ど声にならない声が喉の奥で出てしまう。そうなると、ただ彼の臭いを感じているだけで十分だった。無防備に投げ出されている彼の手をそっと自分の方に寄せ、その指を一本ずつ銜えて愛撫する。すると次第にさっきまでの皮膚の熱さが無くなり、舌を絡めるとひやりとしてきた。
「えっ……う、わッ」
 急に、身体を押さえつけられたかと思うと、腕をがっしりと掴まれた。俯せに倒れ込んだので息が詰まりそうになる。当然、掴まれているのは濡れている方の手で、身体を押さえつけられながら、無理矢理腕を引っ張り上げられた。
「なあーんだよ、朝っぱらから、ああ?」
 寝起きで不機嫌そうな背中越しの声に、吉野はゾクッと身体を震わせる。現場を押さえられた犯罪者のような気分で、吉野は必死に弁解の言葉を考えていた。しかし、これだけ状況証拠が揃っている状態で弁解の余地などあろうはずがない。
「お、お前、いつから起きて……」
「何で朝勃ちしてる俺の方にはノータッチなわけ? 新手の焦らしテクか?」
 掛川はさも不満そうに後ろから吉野の顔を覗き込んだ。押さえつけられた上に体重をかけられ、息苦しさと恥ずかしさで吉野は半分パニック状態になり、言葉が上手く出てこない。
「あ、うん、あっ、そうじゃあなくて、その、お前寝てたか……あっ」
「何言ってるか判んないよ」
 さっきのショックで萎えかかっていたものを後ろからギュッと掴まれた。
「やっ、やめ……」
 首筋と耳朶の裏を執拗に舐められる。舌の熱さを感じて、それだけで吉野は身体を仰け反らせた。掴まれていたものもすぐに固くなってくる。
「……あ、あっ……」
「吉野さん、自分だけ良ければ俺のことはどうでもいいんだ?」
「ち、違……っ、俺、そんなこと言ってないだろ!」
 吉野は掴まれていた腕を振り解き、強引に身体を起こして掛川を押しのけた。
「そうかよ、そんなにして欲しければ何でもしてやるよ」
 突き飛ばされベッドの上でひっくり返った掛川は、呆気にとられた様子で吉野を見返した。
「吉野さんっていつも唐突に態度がデカくなるよな」
「なっ……い、いつもっていつだよ」
「今とか」
 勢いよく掛川が起きあがって、お互いの息が掛かるほど顔を近付ける。でもキスはしてくれない。いや、違う、してくれるのを待っているのだ。
「ま、これから一緒に住んだらずっと態度デカイまんまだろうけどね」
「お前そんなわけ……」
 掛川に反論しようと口を開きかけて、吉野はすぐに噤んでしまった。掛川の何気ない言葉に、心にずっと引っかかっていたことをふと思い出してしまったのだ。掛川の顔はすぐ近くにあって、いつでもキスが出来るのに、吉野は掛川の胸に額を当てて俯いた。
「どうした? 急に」
「……何でもないよ」
 そうだ、これから彼と暮らすことを決めたのだ。決断力のない吉野にしてはとても大きな一歩だった。それなのに、自分の心は別のことを気に掛けている。
「やっぱり吉野さんは落ち込むのも唐突だな」
 苦笑混じりに掛川が吉野の頭を撫でて、そっと口付けした。吉野はいつも思う。こういうとき、本当は逆の立場であるべきなのに、慰められるのはいつも自分の方だ。彼は仕事の話も愚痴も悩み事も決して吉野には言わない。
「何かあるんだろ。何でもいいから言ってみ。俺と一緒に暮らすの嫌になった?」
「違うよ、そんなこと……、ただ、俺、いいのかなって……」
「いいに決まってるだろ? 吉野さんは昇進して給料が上がる。その金でいいマンションを買って俺と暮らす。あ、俺も勿論折半するよ。それに何の不安があるんだ?」
 掛川は不思議そうに吉野を見返し、軽く頭を小突いた。彼はいつもこうやって吉野が不安や愚痴を溜め込まないように話を促す。吉野はいつまでもそれに寄り掛かりっ放しの自分を感じた。
「その、昇進は確かにするんだけどさ、その代わりに……世話になった人が、左遷されるんだ。営業なんて厳しい部署への配属じゃあ、解雇は時間の問題だと思う。俺、あんなに世話になったのに、何にも出来なくてその上、あの人を追い落とすことになっちまった」
 自分が直接やった訳じゃない。だが、窮地に追いやられたあの人を見て見ぬふりをし、一方で自分は掛川との新生活を得ることに変わりはない。
「そうか、それで……吉野さんはどうしたいんだ?」
「どうしたいって…」
 掛川の率直な問いに思わず口籠もる。
「世話になったって言っても、 仕事で上司が部下の世話をするのは当たり前だ。それも仕事の内だろ。しない奴もいっぱいいるけどさ。左遷ってのは結局そいつが仕事出来ねえからだろ? それに何故吉野さんが責任感じるんだ? 例えそのせいでそいつが自殺したって俺は責任なんか感じないね」
 掛川の言うことは至極簡潔だ。良い悪いとは別に、彼の導き出す結論はいつだって筋が通っていて反論の余地がない。彼は仕事と私情を切り離して考えることが出来る。吉野にはそれが出来ない。それだけのことだった。だが、それだけのことの間には大きな隔たりがある。
「吉野さんはいつもそうだ、自分のことを考える前に他人のことを心配する。自分のことだって一人前に出来ねえくせに人の心配ばかりして、見てられないね本当に」
「お、お前、俺のことそんな風に……」
 そう吉野が抗議の声を上げた途端、肩を掴まれ勢いよくベッドに倒された。
「ま、でも……俺は、そんな吉野さんが好きだ」
 開きかけていた口に熱い舌を押し込まれる。絡み合う熱い舌、少しかさついた唇と吐息が重なり合って、溶けていく。たとえどんな自分でも、彼が肯定してしまえば受け入れてしまえるのだ。彼の目を見つめて、お互いの体温を確認し合うことが出来れば、それが自分にとっての全てになる。
 そして掛川は、やはり仕事に遅刻しそうになってしまったのだった。



 吉野は今日という日が来るのを前々から憂鬱に思っていた。日が暮れたというのに、足元のアスファルトは日中の熱を籠もらせたままだ。鬱陶しい気温も相まって、余計に足取りが重くなる。会場である居酒屋に着くと、クーラーの風に冷やされていくらか気分を持ち直したが、それでもやはり憂鬱に変わりはなかった。
「こんなに皆さん、集まって頂いて」
 珍しく皆の視線の中央にいる白石課長が、いつものやる気のなさそうな口調でそう言った。
 今日は、白石課長の送別会だ。当初の予定より参加人数が増えて賑やかな会となったが、当の白石課長は型通りの挨拶をした後、会の主役だというのに酒を注いで廻ったり皆の話に相槌を打ったり、いつも通りひっそりとしていた。
 普段、白石課長を舐めてかかっていた同期の連中や、雑用にばかり使っていた上司達も、今日はいくらか白石課長を立てているようだった。しかし、それも最初のうちだけで、暫く経てば蚊帳の外の存在になっていた。吉野はいつ白石課長に話しかけようか、ずっとその機会を伺っていたが、誰も気に掛けていない白石課長にわざわざテーブルを立ってまで話に行くのがためらわれ、ビールをちびちび飲むことしか出来なかった。
 こんな会を開いて、一体何になるというのだろう。吉野は消えていくビールの泡を眺めながら、こんな場にいる自分が嫌でしょうがなくなった。何とか理由を付けて、欠席すれば良かったような気がする。この会に参加したことが返って白石課長を見下しているように思えて、この場から逃げ出したい衝動に駆られた。しかし、吉野にそんな気概があるはずはなかった。


 送別会がお開きになり、一部の連中が二次会に繰り出す中、会の主役の白石課長は挨拶もそこそこに真っ直ぐ駅に向かって行った。吉野も二次会に参加するつもりはなく、自然と白石課長と並んで歩くことになった。いくらか夜風が涼しくなり、足元のアスファルトはもう籠もっていた熱を全て吐き出してしまったようだ。そう言えば、白石課長とこんな風に並んで歩くのは初めてのような気がした。
「あの、課長」
 無言で歩くのも気不味くなったので、思い切って声をかけてみた。白石課長は返事をするわけでなく、ただ吉野の方をゆっくりと向いた。
「俺、その……、凄くお世話になったのに、何も出来無くって……」
「いえいえ、今日来てくれただけで十分ですよ」
 何が十分だというのだろう。自分の主張を決してしないこの人は、自ら自分を否定しているような気がする。彼を肯定してくれる人はいないのだろうか。
「課長、俺は……本当に、感謝しているんです。課長がいなかったらきっと俺、仕事、ここまでやれなかったような気がするんです」
「吉野君」
 白石課長にしては、はっきりとした声だった。
「私のように、なってはいけないよ」
 思わずその場で立ち止まってしまった吉野は、人混みの中に消えていく白石課長の小さな背中をじっと見つめることしかできなかった。



2004年公開
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