ウシュアイアからの絵葉書

第二話


 初めての二人の共同生活は、一見、順調そうであった。
 沼倉は残業も含め、毎日定時に帰ってくる。その誤差は数十分も無いほどだ。逆に岩崎の帰宅時間はまちまちで、先に食事を作って待ってる日もあれば、帰って来ない日もあった。
 それでも上手くいっていたのは、お互いあまり干渉せず、それぞれのペースを崩さず生活しているからだろう。
 知り合ってから数年間、二人はどこか無意識にお互い距離を置こうとする本能めいたものがあって、それが共同生活を始めてからもずっと続いていた。


「ただいまー」
 岩崎が仕事から帰ってきた。二人の間で仕事の話は滅多にしないので、沼倉は彼がどこでどうやって働いているのか全然知らなかったし、聞こうとも思わなかった。いつも彼は突然帰ってくる。
「おい、いるなら返事ぐらいしろよな」
「あ、ああ。……おかえり」
 ソファで怠そうにTVのバラエティー番組を観ていた沼倉の頭を、岩崎が小突いた。
 いまだに沼倉は、「おかえり」という単語を言うのが妙に不自然に思えて、気恥ずかしさすら感じることがあった。「ただいま」と言うのは何ともないのに、その程度のことで逡巡してしまう自分が可笑しかった。
「おかえり」
 意味もなく、もう一度言ってみた。やっぱり、何か不自然だった。
「何だよ、言いたくないなら言わなくてもいいんだぜ」
「別にそういう訳じゃないんだけど。何か慣れないだけだ」
 上着を脱いで、岩崎もソファの所にやってきた。勝手にTVのチャンネルを変える。
「まあ、確かにな。無理して言うこともないか」
 彼も、同じように不自然さを感じているのかもしれない。その原因は何だろう。二人で居るということは、やはりどこか不自然なのかもしれない。
 岩崎に勝手に変えられたTVのチャンネルではニュースがやっていて、沼倉は以前よりよくニュースを観るようになったような気がした。いつか、それが不自然だとは思わなくなるのだろうか。



「これから帰り、もっと遅くなるのか」
「ああ、今度サービス残業課に異動するんでね」
 珍しく二人で揃って夕食を終え、風呂から上がってきた岩崎に、沼倉は自分の課の異動の話を切り出した。お互い滅多に仕事の話はしないので、言い出しにくいのを誤魔化そうと少し茶化してみたが、逆にそれが失敗だった。
「何だそりゃ。経費削減に首が回らなくなって苦し紛れにそんな部署作ったのか」
「馬鹿、違うよ。財政課だ。通称サービス残業課」
 その名の通り、深夜0時までに帰れればいい方、と言われるほどの業務に忙殺される部署だ。四月の異動で沼倉は財政課に所属が決まり、早々にそれを上司から聞かされたのだった。
「財政か……。それって出世コースなんじゃないか?」
「まあ、一応そう言われてるけどな。途中で挫折しなければ」
「挫折? いつも何でも上手いことやっちゃうお前が?」
 これまでも沼倉は、何事も手堅く、そつなくこなしてきた。彼が公務員になったと聞かされたとき、皆納得したものだった。彼には物事の軽重を上手く捉えるバランス感覚のようなものがあり、仕事も、人間関係も、これと言ってずば抜けて出来るわけでもないが、そのバランス感覚で上手いこと渡り歩いてきた。
「ま、とりあえずおめでとさん」
 岩崎はそう言うと、沼倉のグラスに日本酒を注いだ。
「どうも」
 大して嬉しくも無さそうに、沼倉はグラスを呷った。ちらりと岩崎の方を見る。ちびりと酒を口に運びながら、特にどうという表情もしていなかった。少しくらい寂しそうな顔をしてもいいんじゃないか、とふと思ったが、慌ててその考えを消した。
 沼倉の発達したバランス感覚も、何故か岩崎のことになると狂いがちだった。これは今に始まったことではなく、昔からそうだったように思う。
「なあ、ツマミないの?」
「無いよ。お前、いっつも酒よりツマミばっか食ってるよな」
「お前みたいにツマミも無しに酒ばっか飲んでる奴の方がおかしいんだよ」
「メシ食ったんだからそれで充分だろ。……おい、冷蔵庫漁っても何もねえぞ」
 しかし、一時的にとはいえこうして一緒に暮らすようになると、バランスを保つどころじゃなくなるのを沼倉は痛切に感じるようになった。
 長い付き合いにも関わらず知らなかったお互いの食べ物の好き嫌いや、意外に寝相が悪いことや、歯磨きの時間がやたら長いこと。そして、帰ってきて誰もいない部屋を寂しく思うようになる。岩崎も、気を使って時々沼倉の好きな辛口の日本酒を買って帰ってくる。殆ど飲まなかった酒を付き合って飲むようになった。
「あー、何だよ、あるじゃんハムが。キュウリに捲いて食おうかな」
「おい、それは俺が朝パンに挟んで食う分だよ。朝飯食わねえお前にはやらん」
「まだ何枚かあるからいいじゃん……く、首締めんなよ~」
 冷蔵庫の前で屈み込んでいる岩崎を、後ろから羽交い締めにして冷蔵庫からひっぺがそうとした。
「駄目! 絶対にやらねえ。どうしてもツマミが欲しけりゃコンビニでも買いに行け」
「やだよ~。外寒ィもん」
「ああ? モスクワよりは暖かいだろうが」
「モスクワは空港に一日拘束されただけだって……いって!」
 結局降参した岩崎は、着替えて近所のコンビニまで出かけたのだった。



 沼倉が財政課に異動して一ヶ月が経った。
 残業の嵐だと聞かされていたが、予算編成もないこの時期は割と早く帰宅できるようで、どちらかというとこのところは岩崎の方が忙しそうにしていた。沼倉は、暖かい陽気と共にどこか取り残されているような気分で、彼の帰宅を待つ日が増えた。
「良かったじゃないか、思ったよりヒマで」
「まあ、確かにそうかもしれないけど……」
 まさか岩崎に、ちゃんと定時に帰ってきてくれ、なんて言えるはずがない。自分が忙しいときは特に気にもならなかったのに、今更こんな気分になる自分が嫌だった。軽い苛立ちを抑えるように、臭いの強い煙草を揉み消す。
 沼倉はいつしか、一体いつになったら新居に移るんだ? と岩崎に言う機会を伺うようになっていた。このまま、彼が隣にいることが当たり前になったら、どうなるのだろうか。いや、それは有り得ないはずだった。時々やって来る彼の絵葉書のように、居所の判らない自分達の関係。それはずっと、変わらないはずだった。
「忙しい方がいいのか? お前って本当変な奴だよな」
「変なのはお前の方だろうが。落ち着かないでずっとフラフラして」
「いやいや、俺みたいのは結構いるよ。それよりお前みたいな奴は珍しい。時々凄く不思議だ」
 不思議、とまで言われ沼倉は戸惑った。自分の家もない奴が何を言っているんだと、言いそうになって慌ててそれを飲み込んだ。
「俺は安定した生活と安定した仕事を持って、無理しない程度に適当にやってる。何処が変なんだ」
「不安にならないか?」
「……え?」
 最後の一本の舶来物の煙草を取り出し、岩崎はそれに火を付けた。
 彼が来てから、部屋にオブジェとして置いてあった土産の煙草を、勿体ないと言って吸うようになった。棚の上に飾ってあった煙草も、これが最後の一本だ。勿論、引き出しの中にはまだたくさん残っているが、溢れるほどあったその数は、もう半分以下になっていた。
「だからさ、自分の居場所とか、決まっちゃうと不安にならないか? 俺は凄く不安になる。世の中広いのに、何で自分はこの一点にいるんだろうって、不安になる」
 岩崎の煙草を吸う仕草に見惚れるようになったのは、いつからだったろう。いつも温厚な笑顔を絶やさない彼が、ふと煙越しに見せる静かな眼差し。
「不思議なんだ、お前を見てると、俺は時々凄く不安になる」
 一度強く吸ってから、岩崎は静かに煙草を揉み消した。微かに残った煙だけが、二人の間に漂っている。煙越しに見える岩崎の表情。お互いを見ていて不安になるのは、沼倉の望む安定と岩崎の望む安定は、全く違うものだからだ。
 そこに二人の距離があり、平行線があった。


 結局、新居の話を切り出せなかったと、沼倉は溜息を吐いた。岩崎が自分から出ていくと言ったら、そうか、と笑って送り出せるのに。自分から言い出すのが怖い。
「なあ、煙草ないか?」
 最後の一本を吸い終わってしまい、手持ち無沙汰になった岩崎は、家捜しを始めた。それを見て沼倉は、土産の煙草が仕舞ってある引き出しを指した。
「そこの引き出しにあるよ」
「えっと、ここか、……ん?」
 引き出しから煙草をいくつか取り出したあと、岩崎はその更に奥から何か取り出した。
「あ、これ、俺が送った絵葉書じゃないか」
「えっ?」
 岩崎の手にあったのは、彼がずっと沼倉に宛てて送り続けていた絵葉書だった。土産の煙草と同じ引き出しに仕舞っていたのを、すっかり忘れていた。
「懐かしいな……。これ、お前に一番最初に送ったやつだ」
 そう言って一枚、乾ききった土でできた遺跡が写った絵葉書を広げた。青い空と黄土色の遺跡のコントラストが美しい。
「あの時さ、お前に『一緒にユーラシア大陸横断しよう』って誘ったのに、断られたんだよな」
 まだ大学の頃だ。あの時、沼倉は岩崎が冗談を言っているものだと思い、一頻り笑って断った。後で本気だったと知って、吃驚したものだった。それでも沼倉は、そんな所に何ヶ月も行こうなどとは勿論思わなかった。
「当たり前だろ、お前は全然くたばらなそうだけど、俺はすぐ死にそうだからな」
「そんなこたあないだろ。お前の方がしぶとそう」
 こんな風に、一枚、一枚広げていく。既に色褪せた絵葉書もあるし、何度も見返した絵葉書もある。
 そうだ、絵葉書が届く度に沼倉は彼を思い出し、その思いは届いた絵葉書の分だけ増していったのだ。そしてその増した思いが今、絵葉書を数えるたびに、溢れて零れそうになっている。
「凄い、全部とってある」
「だって、捨てるわけにはいかないだろ」
 最後に送った、カテドラルが写った絵葉書を広げた。これが届いたとき、夏の暑い最中だった。暑苦しい曇り空を見上げながら、彼を思い出した。
「そうだ。捨てないでくれ」
 沼倉がふと顔を上げると、岩崎があの、静かな眼差しを向けていた。
「だってこれは、お前へのラブレターだからな」



 ここのところ、帰りはすっかり午前様だった。仕事がなかなか片付かず終電が終わってしまい、今日は職場からタクシーで帰る羽目になった。
 新聞とチラシが乱暴に挟まった郵便受けを開けると、チラシと共に何かが足元に落ちた。絵葉書だった。
 端が折れてよれよれになっている絵葉書に、海辺の黒い岩地の荒涼とした岸いっぱいに信じられない数のオタリアの群れが写っている。ひっくり返すとまた、下手糞な字で更に下手な文が書かれていた。



ここにある、世界の最果て博物館とかいうところで
パスポートにスタンプ押してもらったんだけど
あんまりにも汚いんで受付の姉ちゃんに嫌な顔された。酷いよな。
こっちは今、結構寒い。多分、モスクワの空港より。
船でビーグル水道を通って街に入ったんだけど
人生最悪の船酔いして本気でヤバかった。死ぬかと思った。
ビーグル水道の途中で見た、
海岸の岩地一面にいるオタリアの群れを見たら
お前はどんな顔するんだろうな。              イワサキ

2003年公開
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