掠れた靴音
最終話
社に戻っても、白石課長の姿はなかった。外回りからそのまま直帰する、というのを社の女の子から聞いた。でも、今会っても何を話したらいいか判らなかったので、丁度良かったかもしれない。お詫びとお礼を言いたい気持ちもあったが、それよりも課長の過去のことが頭から離れなかった。
遅刻のお陰で、仕事がいつもより2時間以上長引いてしまった。帰る頃には外はすっかり暗くなり、いつの間にか雨が降り出していた。それでも吉野はそのまま真っ直ぐ家に帰る気にはならず、地下鉄から私鉄へ乗り換える駅の近くの飲み屋にでも行くことにした。とても、一人で居る気にはなれなかったのだ。
「……のさん、吉野さん」
誰かの呼ぶ声がした。体を激しく揺さぶられている。
「ん……?」
顔を起こすと、目の前に掛川の顔があった。
「あれ……掛川さん?」
「着きましたよ、早く降りて」
無理矢理引っ張られて外に出ると、途端に電車のドアが閉まった。雨が体に当たって体温をどんどん奪っていく。
「たまたま下に降りて来てたから良かったものの…終電で寝過ごしたらどうするんですか」
「あ、ありがとう、ござ…………う、気持ち悪……」
そう言うと吉野は下にうずくまった。頭がクラクラして、とても立っていられなかった。大して強くもない雨が、体に突き刺さってくるような気がした。
「大丈夫ですか? 歩けますか」
「だ、だい…じょぶ…です……」
そう言った側から、吉野は胃の中の物を吐き出したのだった。
「……すいません」
吉野は、今日ほど自分が情けなく思えた日はなかった。
「いえ、気にしないで下さい。もう終電終わりましたし……お茶、飲みますか」
「あ、はい、頂きます」
そして、今日ほど人の親切が身に染みた日もなかった。
あれから、駅員の控え室に連れていってもらい、一休みさせてもらっていた。こんな所に入るのは初めてなので、物珍しげに辺りを見回す。そして、思いがけず掛川と二人きりになり、鼓動が少し早くなっているのが判った。
「それよりも上着、脱いだ方が良いですよ。風邪ひきますよ」
スーツが雨ですっかり濡れていた。これじゃクリーニングに出さないといけないな、と吉野はクラクラする頭の片隅で思った。
「あ、いいです、自分で脱げます……」
掛川が吉野の上着に手を掛けて脱がそうとしたので、慌ててそれを止めた。その時手が触れ合って、吉野は思わずドキッとした。一瞬、お互いの視線が交錯したが、掛川が強引に吉野の上着を脱がした。
「ここに掛けておきますね」
掛川は何食わぬ顔で、部屋の隅の方の椅子に吉野の上着を掛けた。そして今度はタオルを手渡す。
「髪の毛、濡れてますよ。これで拭いて下さい」
「すいません……、何から何まで……」
吉野はタオルを受け取ると、髪の毛は拭かず、顔に押しつけた。
涙が、込み上げてきたのだった。
「どうしたんですか? 大丈夫ですか」
心配そうな、掛川の声。彼の声を聞くと、ますます涙が止まらなくなった。
吐き気と、涙と、そして自分への嫌悪感で何もかもぐちゃぐちゃになっていた。
色々な思いが込み上げて、涙と共に溢れてきた。
「俺、いい気になっていたんです。仕事も、上司も、何もかもナメてた…」
そう言って、吉野は泣き崩れた。悲しいとか、寂しいとか、そういうわけではなく、こんなに涙が出るものだとは思わなかった。
「掛川さんに声をかけてもらってから、俺、浮かれていたって言うか……。いや、俺、そんなに親切にしてもらえるような奴、じゃない、です……」
吉野は、自分でも何を言ってるのか、何を言ったらいいのか判らなくなっていた。嗚咽が漏れ、ますますタオルを顔に強く押し当てた。涙が、熱かった。情けない自分と、今までそれを分かっていなかった愚かな自分が、悔しかった。
「……俺で良ければ、何があったのか話してくれませんか?」
掛川が、吉野の腕を強く握り、タオルを顔から引き離した。吉野は泣き顔が見られるのが嫌で、下に俯いた。掛川が握った腕の所だけ、酷く熱くなっているような気がした。掛川が真っ直ぐに吉野を見つめ、その視線を嫌と言うほどに感じながら、吉野は嗚咽を止めようと必死に息をのんでいた。そんな吉野の顔を、掛川は両手で包み込むようにして持ち上げた。
「俺、ずっと……吉野さんのこと見てました。朝、貴方が駅に来る度に……嬉しかった」
吉野は掛川の突然の告白に目を見開いた。目の前の光景が涙で滲み、ぼやけていた。
「んん……、掛川……さ、ん」
初めはそっと舌先で触れ合うだけだったのが、それだけでは物足りない、と言うように舌を絡ませ、口の中を舐めるように這い回った。吉野は堪らず掛川の首に腕を回し、一度離れても、すぐに唇を重ねた。唇の皮が薄くなりそうなほど舐め合い、吸い付き、歯が当たっても感じていた。
外の雨で部屋は少し湿度が高くなっているようで、空気が湿っていた。二人は部屋の隅の長椅子に腰掛けながら、ずっとキスを繰り返していた。
シャツを捲り肌に直接触れられると、吉野はその手の冷たい感触にビクンと体を強張らせた。腰から脇の辺りまでゆっくりと手を滑らせ、親指で乳首に触れられると、腰から沸き上がってくる快感に吉野は体を仰け反らせた。
「あ、あ……、ん……」
吉野は思わず唇を離し掛川の腕を掴んだ。掛川はそれには構わず、乳首を愛撫しながら首筋を舌先で辿ったり耳朶を甘噛みしたりした。
「吉野さん、ここ感じるんですね…」
乳首を摘まれながら、耳の側でそっと囁かれると、吉野は堪らなく腰が疼くのを感じた。恥ずかしさで思わず、指を噛む。
吉野は自分も掛川の肌に触れたくて、シャツの下に手を滑り込ませた。引き締まった体が汗でしっとりとしていて、触れるとその温かさがゆっくりと伝わってくる。掛川は邪魔だ、とばかりに上着を脱ぎ、シャツのボタンは吉野が外した。吉野は掛川の胸に顔を埋め、乳首をそっと舌先で触れてから、貪るように舐めた。快感で歪んだ掛川の顔はとても色っぽく、吉野はそれをうっとりと眺めた。
「あ、そこは……」
掛川が、しっかりと形を強調している吉野のものにズボンの上から触れてきた。勿論、先走りですっかり濡れており、布が擦れてヌルっとした。今度はベルトを外しズボンを下ろされて、下半身をさらけ出されると、しっかり上を向いて濡れそぼっている吉野のペニスに直接触れてきた。
「掛川さ……あっ、ああ……っ」
今までとは比べものにならない、直接的な快感に吉野は長椅子に倒れ込んだ。すぐにでもイってしまいそうで、吉野は掛川の腕を抗うと、その下半身に触れた。ズボン越しにも判るその形に、吉野はまた凄く、興奮した。吉野は待ちきれない、とばかりに掛川のズボンを下ろし、大きくなっているペニスに触れ、それを扱いた。
「ああ、吉野さん……」
吉野の頬、首筋や肩にキスをしながら耳元で囁かれる甘い声に、吉野は腰が甘く疼いた。そして掛川は、自分のペニスと吉野のペニスを重ねて、一緒に扱いてきた。お互いの先走りが混ざり、クチャクチャと嫌らしい音を立てた。
「あ、あ、駄目、掛川さん…っ」
吉野は我を忘れて喘ぎまくった。掛川の肩にしがみつき、キスを求めた。お互いの舌を絡ませながら、お互いのペニスも絡み合っていた。
「も、駄目……あ、イク……っ」
吉野は体をビクンとさせると、開放された快感に思わず目をつぶった。そして、吉野の腹の上に大量の白濁した液が飛び散った。
お互い肩で息をしながら、暫く呆然と見つめ合っていたが、掛川が吉野に顔を近付けて……キスをした。
朝、いつもより早く社に着いた。
必ず自分より早く来ている事務の女の子もいなくて、何だかいつもより社内がガランとしているような気がした。
あれから、掛川が今日は泊まりだからと言うので、そのまま朝まで二人でいた。仮眠室の隣には狭かったがシャワー室もあり、二人でシャワーを浴びながら……もう一度したのだった。彼が触れた感覚がまだ体に残っており、時々それが甘く疼いた。
始発の準備をしなければならない、と掛川が仕事に戻り、吉野はそのまま電車で都心に行き、早すぎる朝食を摂った。ろくに眠っていない掛川の体が心配だったが、自分は興奮して大して眠くはなかった。ただ、皺だらけになった自分のスーツが、鬱陶しかった。
吉野は自分のデスクに座り、パソコンを起ち上げてメールチェックをし、ダイレクトメールぐらいしか来ていない自分のメールフォルダをボーっと見つめていた。掛川のことを考えると体が甘く疼くのに、心はあまり晴れやかではなかった。心の何処かに何かがこびりついているような、そんな感じだった。そしてそれが何かという事は、自分でもよく判っていた。
ガチャ、とドアの開く音がした。吉野が振り返ると、白石課長の姿が目に入り、心が波立った。
こんな早い時間に出社しているなんて知らなかった。吉野は何だか気まずい雰囲気を振り払うように、「おはようございます」と挨拶した。
「おや、吉野君、珍しいじゃないか」
白石課長は大して驚きもせず、いつも通りに自分のデスクに腰を下ろした。吉野はその姿を横目で見ながら、躊躇する自分の心を振り払うように、思い切って課長のデスクの前に向かった。
「課長……昨日は、申し訳ありませんでした!」
勢い良く頭を下げた吉野を、白石課長は苦笑しながら見つめた。
「今後、こういう事の無いようにな。……まあ、あの間島君とは古くからの付き合いでね。話の分かる人で助かったよ」
「ですが、課長。これは俺の失敗です。責任は自分で取らせて下さい。課長が庇う事じゃないです」
なおも食い下がる吉野を見て白石課長は少し顔を綻ばせたが、それは一瞬で、すぐにいつものやる気の無さそうな顔に変わった。
「いいんだよ、吉野君。若いうちはいくらでも失敗すると良い……失敗から得られるものは意外に大きいものだよ。責任なんてものは、後から考えればいい」
痩せ気味の白石課長の背中が、また更に小さく見えたような気がした。いつから、この人の背中は小さくなっていったんだろう。きっと、大きく見えた頃もあったに違いない。そしてその時は、こんなに小さく見える日が来るとは思っていなかっただろう。
「課長は失敗して、何か得たものはあるんですか」
吉野の唐突な言葉に、白石課長は驚きを隠せず目を見開いた。吉野はあまりに失礼なことを言ったんじゃないかと後悔したが、言わずにはいられなかった。白石課長の顔が、少し曇ったような気がした。
しかし白石課長は何も答えず、ただはにかむように微笑んだだけだった。