陰影
最終話
天井に、ヤモリがひっついていた。窓から漏れる月明かりに照らされ、影が大きく映っていた。たくさんの、ヤモリの影。その影の部分が溶け込み、幾何学模様のような形を作っていた。曲線で出来たその模様は、壁一帯に広がっていてすこし、不気味だった。何だかそれが落ちてきそうな気がして、オレは天井に手をかざした。その手の向こうでは、ファンがのろのろと回って気怠い空気をかき回していた。じっと見ていると、ファンの羽も落ちてきそうな気がしたので、オレは目をそらした。
また、煙を吸い込んだ。息を少し止めてから、肺に押し込む。体中の毛穴から煙が出てきそうな気がした。一緒に、自分の魂も出て行ってしまいそうだった。そんなもの、あるなんて思ってもいないのに。
「ん、あ……」
オレが腰を揺らすと、上に乗っているあいつが、切ない声で喘いだ。
唇を近付けると、奴は貪るように舌を絡ませた。自分のものを扱きながら、腰を揺らす姿は、昼間とはまるで別人だった。抱かれ慣れているようで、どう動いても、どこを触っても、体を仰け反らせ感じていた。汗で額に張り付いた前髪が、扇情的だった。
「ここ、そんなに感じるのか、お前」
素面だったら絶対こんなデリカシーのないことを言ったりしないのだが、今のオレの頭の中に溢れる言葉を押しとどめるものは何もなかった。言葉以外にもたくさんのものが溢れて、こぼれ落ちていきそうだった。そしてそれをすくい取ろうと、頭のどこかでもがいていた。
「何だ、お前も入れてみたいの、か?」
こんな時でも、こいつは人を小馬鹿にしたような事しか言わなかった。挑発するように、乾いた唇を舌で濡らした。それを見て、オレの中で何かが崩れていった。いや、崩れると言うよりは、溶けだして、溢れていくようだった。もう、押しとどめることも、すくい取ることもできなかったし、そうしようとも思わなかった。ただ、頭上に広がるヤモリの幾何学模様だけが気にかかった。
オレは、突然起き上がり奴を押し倒した。それまですっかり任せっきりだったので、酷く驚いたようだった。その驚いた表情も、今のオレには堪らなかった。その見開いた目が、自分だけに向けられている。深く挿入するとまた小さく声を上げ、体を反り返らせた。
「や……そこ、触んなよ……ああ……」
すっかり濡れているそこに触れ、少し扱くと、泣きそうな声を小さく上げてオレの手を抗おうとした。オレは、奴の膝にキスしながらその様子をじっと見つめていた。
「オレ、お前のイクとこ見てみたいんだけど」
もっと色気のある言葉が出てこないものかと我ながら思うのだが、今は言葉を選ぶなんて思考の余地がなかった。いいんだ別に、こいつに気の利いた言葉なんか使わなくても、何て思ってしまう。
「昨夜見ただろ」
「だってオレ、覚えてねえし」
ああなんかオレ、頭悪そう。
「お前が……勝手に、ブッ飛んでただけ……だ、ろ」
そうか、やっぱオレ昨夜はブッ飛んでたのか。昨夜一体何をしていたのか改めて聞きたくなったが、奴の悶えている顔を見たら、どうでもよくなってしまった。
今度は奴の体を持ち上げ、オレの上に乗せた。肩に噛みつくようにキスをすると、くすぐったいのか体をよじらせた。奴は体を更に引き寄せ、オレの肩にしがみつくと、首筋に舌を這わせた。オレもくすぐったくて体をよじらせる。
体が密着し、お互いの皮膚の感触と体温が伝わってくると、世界中で自分達ほど愛し合ってるものはいないような錯覚に陥るから不思議だ。そう、それはあまりにもはっきりとした錯覚だった。
小さな窓から漏れる月明かりが頼りなげに奴の体を青白く照らし、部屋に立ちこめた煙が、その光の筋を辿っていた。それを手に取ってみたくてオレは手をかざしたが、虚しく空を切るばかりだった。今感じているお互いの体温のように。
そして、空を切ったオレの手を、奴は不思議そうに見つめて自分の方に引き寄せると、その指を口に含ませた。歯が当たり、柔らかい舌がからみついてくる。歯の裏や舌の裏を指で辿ると、奴は目を閉じて更に舌を絡ませた。オレはもどかしくなって、指を抜くと顎を引き寄せ口を塞ぐようにキスをした。更に腰の動きを激しくすると、奴は今にも爪を立てんばかりにオレの肩に強くしがみついた。
「ああ……だ、だめ……あっ……」
キスをしながらも、我慢できないのか喘ぎ声が漏れる。それでもキスをし続けると、奥の方から締まる感じがして、オレもすぐ果ててしまいそうだった。先走りで濡れて奴のものは今にも溶けそうで……オレの頭も溶けそうだった。
「ん、あ……あっ」
オレの肩にしがみつき、キスをしたまま奴が精を吐くと、オレも一緒に果てた。その後も暫く、体を密着してそのまま舌を絡ませていた。このまま、溶けてしまえばいいと、思った。
やはり、気怠い暑さで目が覚めた。頭がクラクラする……。オレは、水を飲もうとペットボトルを捜した。ベッドの下に手を伸ばす。
その時初めて、隣に誰もいないことに気付いた。
今オレは、ネパールに向かうバスの中だ。アホみたいに何にもない。いや、アホなのはオレの方かもしれないけど。剥げかかった草原と、空だけが広がっていた。
あれから、奴の姿を見つけることは出来なかった。その辺のバザールを探しても、奴と初めて会ったガートにも、ヴァラナシに滞在した五日間、あいつの話を聞く事すら出来なかった。奴と親しげにしていたサドゥーにも結局出会わなかった。
奴が居なくなって数時間後、オレは自分の荷物からルピー札がごっそり無くなっていることに気付いた。幸い、リュックの奥底に入っているドル札とトラベラーズチェックは無事だったが、しめて3000ルピー以上やられた。オレは朝っぱらから両替屋に走る羽目になった。
オレは、あいつは何だったんだろうとか、金が無くなってたこととか、あれこれ考えるのはやめることにした。ま、とりあえず今ちゃんと生きてるし、こうやってネパールの国境越えもできる。ただ、あの時あいつに、一緒にネパールに行かないか? と誘おうと思っていた事が、今思うと少し恥ずかしかった。
自分でも判っていたはずだった。あれは錯覚だと。あまりにはっきりし過ぎていて、判らなくなっていた。今はもう、何が確かなことで、何がそうではなかったのか判らなくなっていた。
ただ、今でもはっきり覚えているのは、濃くなった影に溶け込んだ、あいつの黒い髪だけだった。